[詳しく]2世紀のイギリス
       

2世紀のイギリス南部は、ローマ帝国の支配下にあり属州ブリタンニアと呼ばれていました。おおよそ現在のスコットランドに相当する北部は征服されず、昔ながらの部族が暮らしていました。

イギリス(ブリタンニア)は、ローマ帝国最北の国境地帯でもあり、重要な地位を占めていたことから多くのローマ軍隊が駐留しました。イギリス(ブリタンニア)は外部からの攻撃を受けることが多かったため、ローマ帝国は防衛に尽力しました。

2世紀のブリテン島ではキリスト教が徐々に浸透しつつありましたが、詳しい経緯はわかっていません。ローマ帝国がキリスト教を承認するのは4世紀の半ばになってからです。

2世紀のイギリスの主な出来事は次のとおりです。

  • ローマ軍がブリテン島北部への侵攻するも撤退
  • ローマがハドリアヌスの壁を建設
  • ローマがアントニヌスの壁を建設
  • ローマ皇帝位の争いにブリタンニア州総督が参戦
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100年頃の夏:新たな戦線 タイン・ソルウェイ線

ローマ兵が最北部の戦線から撤退

親ローマ皇帝トラヤヌス( Trajan )は、ダキア( Dacia / モルドバ )への懲罰的な遠征に集中する目的で、ブリテンについては北部(現スコットランド)戦線から撤退するよう命じました。

ブリタンニア州北端の新たな国境が定められ ノーザンバランド ~ ニューカッスル・アポン・タイン ~ カーライル を結ぶ線に沿って道路( Stanegate Line )や要塞や駐屯地が築かれました。

ヴィンドランダ( Vindolanda )は、スタネゲートと呼ばれる道路沿いに置かれた要塞のひとつです。

ヴィンドランダに遺る軍事用入浴施設の跡
出典 Wikimedia Commons

122年の夏:ハドリアヌスの壁の建設

有事の際には要塞となり平時は人や物が往来

ローマ皇帝ハドリアヌス( Hadrian )は、帝国の国境に天然もしくは人工の壁を築く方針を定めました。ローマ帝国内部の秩序だった人びとと、外界の野蛮人( barbarians )との間に一線を引くことを想定しました。

73マイル(117.5㎞)におよぶ石造りの壁がローマ兵によって、現ニューカッスル( Newcastle )~カーライル( Carlisle )間に築かれました。この壁はローマ帝国の最北端の印であるとともに有事の際には要塞ともなりました。しかし平時は人の往来や物流を妨げるものではありませんでした。

ハドリアヌスの壁
出典 Wikimedia Commons

142年頃の夏:アントニヌスの壁の建設

北部の部族の制圧を目指して

ハドリアヌスの壁が完成してまもなく、新皇帝アントニヌス( Antoninus Pius )がブリタンニア州総督ウルビカス( Quintus Lollius Urbicus )に新たな壁を築くよう命じました。

新たな壁はハドリアヌスの壁より北部に前線を移し、ファース( Firth )~クライド( Clyde )を結ぶ線にに築かれました。長さは37マイル(約60㎞)です。この壁は、現イングランド北部~現スコットランド南部に住んでいた民族を征服する目的で築かれた壁でした。

ハドリアヌスの壁とアントニヌスの壁
出典 Wikimedia Commons

155年頃の夏:ベルラミウムで大火災

木造建築が主流だった街

ベルラミウム( Verulamium / St Albans )は2世紀のブリテン島において、大きく裕福な街のひとつでした。それでも多くの家屋や商店は木造建築でした。おそらくは家庭から出火したとみられ、炎は強い風によってたちまち燃え広がり、街の中心部をも燃やし尽くしてしまったようです。

とても大きな被害だったため、一部は再建されないまま100年以上が過ぎました。

セントオールバンズに遺るヴェルラミウムの北壁跡
出典 Wikimedia Commons

163年頃の夏:ローマ兵、アントニヌスの壁からハドリアヌス壁まで撤退

皇帝アントニヌスの死で方針変更

アントニヌスの壁が築かれてから20年がたった頃、ローマ帝国における北の国境線の方針に再び変更がありました。スコットランド南部にあたる高地を征服したローマでしたが、皇帝アントニヌスが亡くなると、この地を維持することを諦めました。配置されていた兵はアントニヌスの壁( Antonine Wall )を放置して、ハドリアヌスの壁( Hadrian’s Wall )まで撤退しました。

ハドリアヌスの壁とアントニヌスの壁
出典 Wikimedia Commons

180年頃:ブリテン北部で深刻な戦争

ピクト人がローマ人の将軍もしくは総督を殺害

現スコットランド南部~現イングランド北部にかけての地域に定着していた部族は、ローマ帝国に完全な降伏をすることはありませんでした。反乱はわりと頻繁に起きていました。なかでも180年に始まった小競り合いは、数年におよぶ戦争へと発展しました。この頃、近くにあった町の多くが安全を求めて南へ移動し、土を盛り上げて柵を巡らす防衛設備を備えました。

180年に北のピクト人がハドリアヌスの壁を破り当時の軍指揮官もしくは総督を殺害しました。カッシウス・ディオ( Cassius Dio )は、皇帝コンモドゥス( Commodus )の治世におけるもっとも深刻な戦争のひとつだと語っています。

184年、ウルピウス・マルセルス( Ulpius Marcellus )がブリタンニア州総督として送られ、国境地帯の平和を取り戻すことに成功しました。

191/192年頃の冬:クロディウス・アルビヌスがブリタンニア州総督になる

皇帝の名乗りをあげた3人、ひとりはブリタンニア州総督

191年、ブリタンニア州総督にデシマス・クロディウス・アルビヌス( Decimus Clodius Albinus )が就任しました。

この翌年の暮れにローマでは皇帝コモドゥス( Commodus )が暗殺され、帝位を継承したパーティナックス( Pertinax )も193年3月に殺害されると、帝国の各地から皇帝位を狙う3人が台頭しました。

ブリテンから名乗りを上げたのが総督デシマス・クロディウス・アルビヌスです。他2人は、パンノニア( Pannonia )からセプティミウス・セウェルス( Septimius Severus )、属州シリア( Syria )からペスケンニウス・ニゲル( Pescennius Niger )でした。

クロディウス・アルビヌス の胸像
出典 Wikimedia Commons

196年頃の秋:クロディウス・アルビヌスの皇帝即位をブリテンおよびスペインが支持

東のペスケンニウスが敗戦し落命

皇帝の名乗りをあげたブリタンニア州総督クロディウス・アルビヌス( Decimus Clodius Albinus )は、192年のローマ内戦において、より強力なライバルであったセプティミウス・セウェルス( Septimius Severus )の陣営に味方しました。

セウェルスは194年に、東のライバルであるペスケンニウス・ニゲル( Pescennius Niger )を討ち殺しました。

196年とみられる秋、クロディウス・アルビヌスはガリア地方( Gaul )に侵入することでセウェルスに反旗をひるがえし、自身の皇帝即位を宣言しました。

197年頃:クロディウス・アルビヌスの死(リヨンの戦い)

ローマ皇帝位の争奪戦、勝者はセプティミウス・セウェルス

ブリタンニア州総督出身のクロディウス・アルビヌスは、自ら皇帝を名乗り、ライバルであるセプティミウス・セウェルス( Septimius Severus )に向かって進軍しました。両者が率いる対規模の軍団はリヨン( Lyons )で血みどろの戦を交えました( Battle of Lugdunum )。

クロディウス・アルビヌスは落命し、皇帝を名乗る有力者はセプティミウス・セウェルスただ一人となりました。

197/198年の冬:皇帝がクロディウス・アルビヌスの支持層を駆逐

皇帝セプティミウス・セウェルスがブリタンニアに軍隊を送り込む

戦に勝ち残った セプティミウス・セウェルス( Septimius Severus ) は、敗者 クロディウス・アルビヌス( Decimus Clodius Albinus ) の支持組織を駆逐するため、ブリタンニア州に代理人と軍隊を送り込みました。

なおこの頃、ハドリアヌスの壁の周辺で部族の反乱や暴動が起こっていた可能性があります。


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参考文献

Hadrian’s Wall
last edited on 3 January 2023, at 16:27 (UTC)
Antonine Wall
last edited on 28 January 2023, at 11:43 (UTC)
Roman Britain
BBC © 2014
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