中世前期のイギリス(5世紀・6世紀・7世紀・8世紀・9世紀・10世紀)
5世紀ころからアングロ・サクソン人がブリテン島に侵攻し定住を始めます。 アングロ・サクソン人というのは、ゲルマン系の3つの部族”アングル人、ジュート人、サクソン人”の総称です。彼らは、現在のイングランドに相当するエリアに定着しました。アングル人が支配した土地だからアングランド⇒イングランドとなったようです。 アーサー王伝説では、ブリトン人のアーサーがアングロ・サクソン人の侵略を食い止めてブリテンの […]
5世紀ころからアングロ・サクソン人がブリテン島に侵攻し定住を始めます。 アングロ・サクソン人というのは、ゲルマン系の3つの部族”アングル人、ジュート人、サクソン人”の総称です。彼らは、現在のイングランドに相当するエリアに定着しました。アングル人が支配した土地だからアングランド⇒イングランドとなったようです。 アーサー王伝説では、ブリトン人のアーサーがアングロ・サクソン人の侵略を食い止めてブリテンの […]
ローマ帝国は4世紀末に東西に分裂しました。西ローマ帝国は、外敵の侵入を防ぎきれず疲弊してゆきました。5世紀初頭、イギリス(ブリタンニア)に派遣されていた軍がひと仕事終えて撤退すると、ブリタンニアは弱体化しました。 5世紀のイギリスの主な出来事は次のとおりです。 ローマからの派遣軍がブリテン島を去る ブリタンニアの将軍コンスタンティヌスが皇帝を僭称し、軍をひきつれて大陸に渡るも敗戦 ブリトン人がロー […]
1066年、ノルマンディ公爵ウィリアムが、イングランドに侵攻し国王ハロルドを破りました。ウィリアムはイングランド王として戴冠し、ノルマン人によって国土が審査され再配布され貴族層が入れ替わるという前代未聞の征服となりました。
ヘンリー3世は、第一次バロン戦争の最中に、9歳でイングランド国王に即位しました。僧侶によって育てられ、敬虔なキリスト教信者となり、芸術や学術、建築に傾倒しました。ゴシック様式でウェストミンスター修道院の再建を命じたのもヘンリー3世です。聖職者や妃の影響を受けやすい意志薄弱な人物だったと評されることがあります。 治世の後半に、第二次バロン戦争が勃発し、戦に負けて捕らわれの身となりました。その間に権力 […]
ブリテン諸島のバイキング時代は、793年に始まったとされるのが一般的です。これは「アングロサクソン年代記」に記された「リンディスファーン修道院の襲撃」の年に基づいています。現フランスのノルマンディ(Normandy)として知られる地方は、このノースマンらが徐々に侵略し定住するようになった地域です。リューリクなる人物は東へ遠征し、859年にノヴゴロド(Novgorod / Novgorod)に王朝を建てたとされています。
クヌートはスヴェンの息子で、デンマークの王子でした。父スヴェンはイングランドの征服に成功して、イングランド国王の地位についた人物です。ただし即位後まもなく亡くなり、王位はふたたび旧来のウェセックス家へと戻っていました。 クヌートはイングランドを征服してイングランド王位に就き、デンマーク王位を継承し、スコットランド王をしのぎ、ノルウェーを征服してノルウェー王にもなりました。その支配域は「クヌートの北海帝国」として知られています。
このページは、13世紀のヨーロッパの服装【女性編】です。 13世紀ヨーロッパの服装の「概要」および「男性編」は下記リンク先を参照してください。 基本のスタイル 女性の衣服も男性と同様に比較的質素で控えめでした。くるぶし丈のシャツの上にシクラス( cyclas )または、袖のないサーコートを着用し、ウエスト部分を細めのベルト( belt )で締めました。 富裕層の女性は、こうした衣服やマントに刺繍を […]
ハロルドは、クヌート大王と前妻の息子です。クヌートと前妻の結婚はキリスト教に則ったものではなかったので、イングランドにおいてハロルドは婚外子(私生児)という扱いになります。クヌート大王が亡くなったとき、ハロルドはいちはやく自身の王位継承を主張しました。このころ正妻エマの息子であるハーデクヌーズは、デンマークの攻防戦で忙しくしていました。この隙にハロルドは正式にイングランド王位に就くことに成功しました。
バイキングはダブリンのほかにも町を築き、アイルランドそして西ヨーロッパの経済に影響をあたえるようになります。ブライアン・ボルは、事実上アイルランドを統一したとも言えるでしょう。ディアルマド・マク・マール・ナ・ムボはダブリンをも掌握しアイルランドの覇権はスコットランド沖まで拡大します。トイルデルバフはフランス、スペイン、イングランドの支配者や権力者と政治的および商業的なつながりがあり、アイルランドの存在感を示すとともに交易の発展に貢献しました。
イングランド国王になったヘンリー1世は、のちに長兄ロバートとの戦いにも勝利して、ノルマンディ公爵領をも支配下に収めました。ヘンリー1世は勤勉で聡明な王として知られています。嫡男を海難事故で失ったため、娘への王位継承を段取りしますが、その死後に内戦となりました。