アメリカ革命のながれ(1/2)
       
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1760年代以前

1760年代以前のイギリス領アメリカは、「植民地議会」による自治を行って現地での事柄を処理していました。宗主国イギリスからほどよく放任(Salutary neglect)されており、比較的快適な時代を過ごしていました。

1764年:砂糖法

密輸貿易を阻止し、税収を上げる狙いをもって制定

当時、フランス領およびオランダ領の西インド諸島(カリブ海)から北米のイギリス領へ、砂糖と糖蜜の密輸貿易が行われていました。

これまで外国領産の砂糖や糖蜜には高い輸入税が課されていましたが、これを減額することで合法的な輸入を促し、徴税を確実に行いたい狙いでした。このため、あわせて密輸の取り締まりも強化しました。

アメリカの植民地人にとって不快だったのは、商船の取り締まりの厳しさでした。積荷が検査対象となり、イギリス関税局によって差し押さえられたり押収されたりしました。

こうした出来事は、イギリス本国政府に対する不信を招き、植民地人による革命思想が膨らむ要因のひとつとなりました。

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1765年:印紙法

植民地人と本国商人の双方から不人気だった印紙法、翌年に廃止される

1765年の印紙法(Stamp Act)は、13植民地で取り交わされる公式文書やゲーム用カード、カレンダー、新聞、その他のさまざまな業務上のものに印紙を求める内国税です。

植民地人は「植民地代表会議(Stamp Act Congress)」を開きました。これは、複数の植民地から派遣された代表がイギリスによる課税について議論するはじめての会議となりました。

印紙法にはイギリス本国の商人や製造業者も反対しました。彼らの輸出品に対するアメリカの不買運動を恐れたからです。印紙法は1766年3月18日に廃止され、アメリカとの緊張は一時的に解けました。

1767年~1768年:タウンゼント諸法

植民地人の抵抗と怒りが再燃し、官僚との溝がいっそう深まる

「タウンゼント諸法(Townshend Acts)」とは、1767年~1768年にかけてイギリス議会を通過した、アメリカ13植民地に係る条令の総称です。法案を通過させた財務大臣チャールズ・タウンゼント(Charles Townshend)にちなんで、このように呼ばれます。

タウゼント諸法

タウンゼントの死後に可決されたものも含めて、以下5件です。

・制限法
英国議会の決定に従わないニューヨークの自治権に制限をかけるもの(実行されず)

・税収(歳入)法
グラス、鉛、顔料、紙、茶に課税し、植民地人の私有財産までも家宅捜査

・補償法
イギリス東インド会社の商品を密輸品よりも魅力的にするための工夫

・関税局法
植民地人の脱税と密輸の取り締まりを強化(ボストンに設置された関税局は、のちのボストン虐殺事件の現場となる)

・副海事裁判所法
税法違反や密輸罪の被告人を、イギリスの権限で裁く

諸法の目的は、次の通りです。

  • 植民地での歳入をふやし総督や行政官の給与に充てることで、彼らの本国への忠誠心を温存したい
  • 貿易ルールを順守するよう、より効果的な手段を講じたい
  • 法に従わない州には懲罰をもって応じる構えを示す
  • イギリス本国議会が植民地に課税する権利を有することを慣例化したい

1770年:ボストン虐殺事件

ボストンで兵士が大衆に発砲し、官僚と植民地人に決定的な亀裂が生じる

タウンゼント諸法は、アメリカ植民地人から激しい抵抗にあい、1770年3月の「ボストン虐殺事件」の誘因となりました。

1770年3月、港町ボストンで大衆(植民地人)がイギリス兵を挑発し物を投げつけました。怒った兵のひとりが発砲してしまい、つづいて数人の兵士が大衆に向かって一斉に射撃しました。民間人が命を落としました。(上官が命じた斉射ではありませんでした。)

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1772年:ガスピー事件

急進派の植民地人による英国船ガスピー号の襲撃

ガスピー事件は、密輸の取り締まりにあたっていた英国の帆前船ガスピー号が(HMS Gaspee)が、急進派の植民地人(Sons of Liberty)によって放火された事件です。

ガスピー号の司令官ウィリアム・ダディングストン中尉は地元の郵便船ハンナ号を追った際に、浅瀬(Namquid Point 現 Gaspee point)に乗り上げてしまいました。中尉は翌日の満潮を待つことにしますが、この間にハンナ号の船長は町で吹聴し、急進派の植民地人80人が夜の暗闇にまぎれてガスピー号に近づきました。

Destruction of the schooner gaspee, from an old engraving. The Providence Plantations for 250 Years (1886), page 59.

急進派は、マスケット銃でダディングストン中尉を撃ち怪我を負わせ、乗組員を降ろしたあとで、船に火を放ちました。積んでいた火薬に引火して、ガスピー号はこっぱみじんになりました。

イギリス議会は事件の犯人を本国で裁くため身柄の引き渡しを要求しますが、じゅうぶんな証拠がなく実現にはいたりませんでした。

植民地の愛国者(Patriot)は非常に警戒し州ごとに委員会を結成し植民地同士で連絡を取り合う体制を整えました。

1773年:茶法とボストン茶会事件

「茶法」に抗う植民地人によるイギリス領産の茶葉の輸入ボイコット

1770年にタウンゼント諸法の課税法のほとんどは、首相フレデリック・ノース(Frederick, Lord North)内閣によって廃止されました。

しかし「茶の輸入税(Declaratory Act of 1766)」は残されており、これが「茶法(Tea Act of 1773)」によって再調整されました。1773年の茶法はイギリス政府にとっても植民地人にとってもメリットがあり、これまでの条令に比べると良識的でした。それゆえに「イギリス議会に植民地人の代表がいない問題」が未解決のまま見過ごされそうになったのです。

この点に気づいたサミュエル・アダムス(Samuel Adams)らが、イギリス領産の茶葉の輸入を拒否し、市民に喚起をうながしました。

1773年12月16日のボストン港(Boston Harbor)で、革命思想をもった植民地人が、イギリス船に積まれていた茶葉40トンを海に投げ捨てました。イギリス領産の茶の輸入のボイコットです。これを「ボストン・ティー・パーティ(Boston Tea Party)」と呼び、日本語では「茶会事件」と訳されています。

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1774年:強制諸法と第一次大陸会議

ボストン茶会事件への応酬
-懲罰的な条令に植民地人の怒りが頂点に達して戦争へ

ボストン茶会事件を受けて、イギリス政府は1774年に懲罰的な「強制諸法(Coercive Acts)」で応酬しました。マサチューセッツの自治権の剥奪し、ボストン港を封鎖したのです。

1774年4月、”革命派 / ホイッグ”として知られる植民地代表のグループは、フィラデルフィアに集まり「第一次大陸会議(First Continental Congress)」を開きました。

この代表のなかには、バージニアのジョージ・ワシントン(George Washington)とパトリック・ヘンリー(Patrick Henry)、マサチューセッツのサミュエル・アダムス(Samuel Adams)、ニューヨークのジョン・ジェイ(John Jay)らがいました。

大陸会議は条令の撤回を求めますが受け入れられず、英国政府との対立は最高潮に達しました。代表のないイギリス議会でアメリカの課税法案が審議されていることを強く非難し、現地の同意なく軍隊を駐屯させることにも不服を示しましたが、この時点ではまだ「独立」の表明はしていません。

1775年ついにボストン近くで戦争が勃発し、翌年に「独立」を宣言して戦いが続くことになりました(Lexington and Concord / American Revolution)。

なお、英国王に忠誠を尽くした植民地人もいました。彼らは”王党派 / トーリー”として知られています。

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参考
Boston Massacre
Boston Massacre Historical Society
Christopher Seider
burning of the Gaspee

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