高まる反英感情、ボストン虐殺事件が起こるまで

高まる反英感情、ボストン虐殺事件が起こるまで

ボストンは、イギリス領アメリカ13植民地のひとつマサチューセッツ湾州の州都でした。重要な港町のひとつです。

ボストン虐殺事件が起こるまで

脱税と密輸の取り締まり強化:関税局の本部がボストンに設置される

1760年代、イギリス議会によって北アメリカに様々の課税法が布かれました。植民地人はこれらの課税法を「英国民としての権利を侵すもの」とみなして、抵抗していました。

1767年、タンゼント諸法のひとつである「関税局法」が布かれ、脱税と密輸の取り締まりが強化されました。関税局が新設され、その本部がボストンに置かれました。

Detail of Paul Revere’s engraving of the Boston Massacre, 1770; Custom House visible at right

マサチューセッツ代表者議会がイギリス産の課税品の非買運動をうながす

マサチューセッツ代表者議会(The Massachusetts House of Representatives)はイギリス国王ジョージ3世に嘆願書を送り「税収(歳入)法」の取り下げを求めまます。さらに他の植民地議会に抵抗運動への参加を呼びかけ、イギリス産の課税品の非買運動を促しました。

植民地大臣(Colonial Secretary)に任命されていたヒルズボロ子爵(Lord Hillsborough)は、マサチューセッツ代表者議会の行動におどろきました。

Wax profile portrait of Lord Hillsborough by ‘Lewis’.

植民地大臣ヒルズボロ子爵が「抵抗運動の呼びかけの取消し」を命令するも、代表者議会はこれを拒否

1768年4月、ヒルズボロ子爵はアメリカの各植民地総督に手紙を送り「マサチューセッツ植民地議会の呼びかけに応じた集会を解散」させるよう指示しました。またマサチューセッツ総督のフランシス・バーナード(Francis Bernard)には、「マサチューセッツ植民地議会に指示して抵抗運動の呼びかけの取り消しさせるよう」命じました。

しかしマサチューセッツ代表者会議は、総督の指示に従うことを拒否しました。

関税局が密輸船リバティを押収、ボストン人の暴動が起こる

ボストン関税局長官のチャールズ・パクストン(Charles Paxton)がヒルズボロ子爵を通じて、取り締まりのための「軍事支援」を求めます。英国海軍准将サミュエル・フッド(Samuel Hood)がこれに応えて、戦艦HMSロムニー(HMS Romney)を送りました。戦艦は1768年5月にボストン港に到着しました。

同年10月、関税局はスループ型帆船リバティ(Liberty)を押収します。ボストンの商人ジョン・ハンコック(John Hancock)が所有する船で、密輸に関わっているとの報告を受けてのことでした。

Portrait of Hancock by John Singleton Copley, c. 1765

これを聞いてボストン人は暴動を起こし、関税局員はウィリアム要塞(Castle William)へ避難する事態となります。HMSロムニーのキャプテンは、地元の船乗りを強制的に海軍兵士として徴用していたので、ボストンの人々はかねてより怒りを抱いていたのです。

ヒルズボロ子爵、イギリスに援軍を要請:第14および第29歩兵連隊の駐屯はじまる

政情不安定なマサチューセッツの事態をかんがみてヒルスボロ子爵は、英国軍北アメリカ最高司令官(Commander-in-Chief, North America)のトーマス・ゲイジ(Thomas Gage)に援軍を要請しました。最初の連隊は、1768年10月1日にボストンに到着しました。全部で4つの連隊が送られましたが、うちふたつは1769年に引き上げられ、第14および第29歩兵連隊がボストンにのこりました。

王党派の雇われ兵が11歳の民間人を殺害する事件

新聞には、ボストンの人々と兵士の衝突について、一連の記事が匿名で書かれました。これはときに誇張して書かれており、事態の緊張を煽ったかもしれません(Journal of Occurrences)。しかし両者の衝突が決定的となったのは、1770年2月22日にボストンで起こった事件です。

クリストファー・ザイダー(Christopher Seider)という名の11歳の少年が、王党派のエベニーザー・リチャードソン(Ebenezer Richardson)によって殺されました。

リチャードソンは英国直属の関税局に雇われていた人物です。王党派が経営する店の前に詰め寄せた大衆を追い払うために、現場にいました。大衆は店の窓に石を投げたり、店主の妻を打ったりしていました。リチャードソンは大衆に向かって発砲しました。この弾があたって腕と胸を負傷したザイダーが、その日の夕刻に死亡したのです。

サミュエル・アダムス(Samuel Adams)が執り行ったザイダーの葬儀には2000人以上が参列しました。ザイダーの死について報じた日刊新聞のボストンガゼット(Boston Gazette)は、彼の葬儀が当時のボストンで最大規模のものであることを書いています。この事件とメディアの報道によって、政情はいっそう不安定になりました。

「反英の植民地人」と「関税局および兵士」との間には緊張が張りつめ、何が引き金となってもおかしくない情勢となっていました。

18世紀イギリス領アメリカのボストンで、兵士が大衆に発砲した事件
18世紀イギリス領アメリカのボストンで、兵士が大衆に発砲した事件
民間人と揉め事を起こしたひとりの護衛官が助けを求め、プレストン大尉率いる数人の兵士が援護に駆け付けました。見物に集まった大衆は兵士に雪玉や石を投げ、さらには大尉.....
アメリカ独立への序章「砂糖法」
アメリカ独立への序章「砂糖法」
1764年4月5日、「砂糖法案」がイギリスの議会を通過しました。当時、フランス領およびオランダ領の西インド諸島(カリブ海)から北米のイギリス領へ、砂糖と糖蜜の密.....

参考
Boston Massacre
Colonial government in the Thirteen Colonies