「コペンハーゲンの戦い」副提督ネルソンの先制攻撃が功を奏する

「コペンハーゲンの戦い」副提督ネルソンの先制攻撃が功を奏する

コペンハーゲンの戦い(1801年4月2日)

ネルソン、副提督としてバルト海に遠征

1801年1月、ネルソンは副提督(vice admiral)に昇進します。バルト海(Baltic)遠征軍に、ハイド・パーカー(Sir Hyde Parker)に次ぐ指揮官として配属されました。

Nelson Forcing the Passage of the Sound, 30 March 1801

パーカーの戦艦は、コペンハーゲンに向かいました。パーカーはデンマークを封鎖して、バルト海への入り口を掌握しようとしました。ネルソンに助言は求められていませんでしたが、デーン人の抵抗が増すにしたがい、彼は先制攻撃を提案して上官パーカーを説得しました。

ネルソンの艦隊は攻撃に向かい、パーカーの艦隊は敵の援軍(スウェーデンやロシアの艦隊)にそなえて守りを固めることになりました。

ネルソンの娘ホラティア誕生

愛人エマ(emma)はネルソンの子を妊娠していました。ネルソンはバルト海への遠征のためにイギリスのヤーマス港(Yarmouth)を出航する少し前、エマが娘を出産しホラティア(Horatia)と名付けたとの知らせを受けました。

Horatia Nelson kneeling before her father’s (imaginary) tomb .*oil on canvas .*160.4 x 136 cm .*after 1807

上官パーカーの不安をよそに、先制攻撃を実行したネルソンが戦いを勝利に導く

ネルソンは、艦隊を通すには浅すぎると思われる困難な海峡を通り抜けることによって、市の北側に備えられた沿岸砲を迂回しました。翌4月2日の朝、ネルソンは攻撃を命じます。

The Battle of Copenhagen, 2 April 1801, by Nicholas Pocock (National Maritime Museum, Greenwich, London). Nelson’s fleet exchanges fire with the Danes, with the city of Copenhagen in the background

イギリス艦隊の砲術は優れていましたが、戦略に不安がのこるパーカーは、ネルソンがとんでもない損失を出すのではないかと気が気ではありませんでした。

「ネルソンのために、撤退のシグナルを発する。この撤退は上官からの命令であり、この撤退によってネルソンが責めを負うことはない。」デーン人が果敢に抵抗に出たのを見て、パーカーは撤退のシグナルを発します。

ところがネルソンはこれに従わなかったのです。

パーカーの撤退シグナルに従わなかったネルソンの逸話

シグナル担当の士官(Frederick Langford)から「撤退命令」の報告を受けたネルソンは「敵の代将を見張ってろと言っただろ。知らせは、敵が降伏したときだけでいい。」と言ったとする話があります。

ネルソンは続いて、キャプテン(Thomas Foley)に「フォーリー、わかるだろ、わたしは片目を失ってるんだ。ときどき盲目になるんだよ。」と言い、望遠鏡を見えないほうの目にあてて「やはり、撤退のシグナルは見えない。」と言いました。

伝記作家の Roger Knight によれば、この会話はおそらく”作り話”だろうとのことです。

Parker and the Baltic

The Battle of Copenhagen. Painting by Christian Mølsted. (view from a floating battery)

ほどなく、勝利はネルソンが手にしました。デーン人の船は粉々になり、約6000人の死傷者をだしました。イギリス軍の死傷者の約6倍でした。

ネルソンはパーカーを継いで、ようやく、艦隊の最高司令官の地位に就きました。また、ようやく、「子爵(viscount)」にも叙せられました。

ロシアで国王暗殺、新国王が和平交渉をはじめる

コペンハーゲンの海戦に勝利したあとも、まだロシアの脅威がのこっていました。そこでネルソンはロシアのサンクトペテルブルグ(St Petersburg)を目指して航行します。1801年5月14日にはタリン(RevalTalin)まで進んでいましたが、このあとロシアは、和平交渉を始めます。ロシア国内では国王ポール1世(Paul I of Russia)が5月23日に暗殺され、後継のアレクサンダー1世(Alexander I of Russia)が、イギリスとの戦争を望まなかったためです。こうしてロシアの脅威は去りました。

Tsar Paul of Russia

アミアンの和約で休戦

ブルゴーニュの攻撃に失敗、休戦条約がむすばれ再戦ならず

ネルソンはフランスのブルゴーニュ(Boulogne)の攻撃を計画しました。フランスによる侵攻の可能性を阻止するためです。しかし、この攻撃に彼自身は参加せず、またこの作戦はひどい失敗に終わりました。再度の挑戦を計画しますが、実現しませんでした。1802年3月に「アミアンの和約(Treaty of Amiens)」が結ばれ、休戦となったからです。

参考
Horatio Nelson
Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson
Parker and the Baltic
Battle of Copenhagen (1801)
Merton
Tsar Paul of Russia