「ナイルの海戦」は、フランスとイギリスのあいだで、1798年8月1日に戦われた海戦です。ネルソンが率いる英国の艦隊が、フランス艦隊を駆逐し、ナポレオンの計画を阻止しました。
ナポレオンのエジプト侵攻の目的
ナポレオンはエジプト侵攻を計画していました。目的は「イギリスの貿易ルートを妨害すること」です。またインドのイギリス領に打撃を与えることも考えていました。ナポレオンはエジプト経由でイギリスの敵に援軍を送る手はずだったのです。
ナポレオンの計画を阻止することは、イギリスにとって非常に重要な意味をもつものでした。
ネルソンの出航
1797年7月の「テネリフェの戦い」で負傷し片腕を切断することになったネルソンは、イギリスに戻って療養していましたが、じゅうぶん回復したとして1798年の春から軍務に復帰していました。
提督ジャービス(Earl of St. Vincent)はネルソンの戦隊に、トゥーロン港(Toulon)に停泊しているフランス艦隊の監視を任せました。
ネルソンは旗艦ヴァンガードに乗りジブラルタル基地を出港します。5月20日に北西からの暴風に合って船が破損し、戦隊が散り散りになるなどの混乱を経ますが、最終的に戦列艦14隻とブリッグ船1隻を率いてフランス艦隊の監視に向かいました。
一方のフランスは追い風にのってすでにトゥーロン港を出発し、占拠したマルタ島(Malta)でフランス兵を載せるとエジプトへ向かっていました。
遅れをとってしまったネルソンですが、敵艦の行方の見当はついていました。
シチリア島(Sicily)で船の修理を終えたネルソンは、エジプトのナイル川の河口アレクサンドリアの港(Abu Qir Bay)に停泊するフランス艦隊を見つけます。敵将ブルーイ(François-Paul Brueys d’Aigailliers)が率いる13隻の戦列艦と4隻のフリゲート艦です。1798年8月1日、日没まで数時間でした。
フランス艦隊を壊滅
ナポレオン陸軍はエジプトに取り残されて計画に支障
ネルソンはすぐに攻撃命令を発しました。激しい戦いが繰り広げられ、ネルソン自身も頭に怪我を負いました。
夜の10時ころ、ひときわ大きな敵の戦艦(L’Orient)が爆発します。周囲の船をも吹き飛ばし、敵将ブルーイもここで命を落としました。
戦いは夜明けまで続き、フランス艦隊は2隻の戦列艦と2隻のフリゲート艦を残して絶滅しました。死傷者はイギリス軍に約900人、敵軍にはこの10倍近い犠牲がでたと云います。
「ナイルの海戦」に勝利した意義はとても大きなものでした。フランス海軍が壊滅したことで、エジプトに移送されていたナポレオンの遠征軍が隔離されることになり、ナポレオンの計画をくじいたからです。またこのすきにイギリスは、フランスの手に落ちていたマルタ島住民の反乱を支援します。イギリスの威信は高まり、地中海の制海権も確保できたのです。
ネルソンの活躍はすぐにロンドンに届き、貴族の爵位「男爵」を与えられました。
「ナイルの海戦」インドへの影響
インド南部のマイソール王国は北部のイギリス領と敵対しており、ナポレオンはイギリスの敵を支援するために、エジプトから援軍を送る手はずでした。なお、このときのインドに駐屯していたのは後のウェリントン公、29歳のアーサー・ウェルズリー大佐(Arthur Wellesley)です。インド総督はアーサーの兄、第2代モーニントン伯(Richard Wellesley)でした。総督は、ネルソンの活躍で危機が去ったのを好機とみて、第4次マイソール戦争(Fourth Anglo-Mysore War)を開始しました。
子爵位が見込まれたが、授かったのは男爵位
フッド子爵(Samuel Hood)は首相(William Pitt the Younger)と話したあと、ネルソンの妻に「サンビセンテ岬の海戦の勝利で伯爵位を授かったヴィンセント伯のように、ネルソンも子爵位あたりをを授かるだろう」と伝えていました。
しかしスペンサー伯(George Spencer)が異議をとなえていました。「ネルソンは艦隊の最高司令官ではなく、いち司令官として戦隊を率いたに過ぎないのに子爵位を与えては好ましくない先例となる」というのが彼の主張でした。
こうして、格下の「男爵位」がネルソンに授けられました。ネルソンはスペンサー伯の決定に意気消沈し「それならいっそのこと爵位などなくてよかった」とぼやいたと伝えられています。
貴族の爵位(降順)… 公爵 > 侯爵 > 伯爵 > 子爵 > 男爵
参考
Battle of the Nile
Horatio Nelson