ボストンは、イギリスの北アメリカ13植民地のひとつであるマサチューセッツの重要な港町でした。
1773年12月16日のボストン港(Boston Harbor)で、革命思想をもった植民地人が、イギリス船に積まれていた茶葉40トンを海に投げ捨てました。これを「ボストン・ティー・パーティ(Boston Tea Party)」と呼び、日本語では「茶会事件」と訳されています。
ボストン茶会事件とは
革命思想をもった植民地人によるイギリス領産の茶葉の輸入ボイコット-「茶法」への抵抗
「ボストン茶会事件」は、急進派の植民地人(Sons of Liberty)による「茶法(Tea Act)」への抵抗、ひいてはイギリス議会への抵抗運動です。
茶葉は「イギリス東インド会社」からアメリカに輸入される予定のものでした。しかし北アメリカの植民地人は茶葉の荷下ろしを拒絶しました。ボストンでは、決着のつかない問答の末に、40トンの茶葉が海に投げ捨てられる事件がおこりました。
この行いに対してイギリス政府は懲罰的な一連の条令をもって応酬しますが、さらなる反発を招いて独立戦争へと発展することになります。
「茶法」とはどんな法で、何が問題だったのか
「茶法」は同年5月にイギリス議会によって制定された条令です。「茶法」によって茶葉の価格は、税金を含んでもなお密輸品より安くなるよう設定されました。これまで合法茶葉は、密輸品にシェアを奪われていたのです。
アメリカで茶葉を合法的に安く買えるようになることは、イギリス政府にとってもアメリカ植民地人※にとっても、メリットのあるよい話に聞こえます。何が問題だったのでしょうか。
※植民地人…北アメリカのイギリス領に入植した人々の子孫
じつは「茶法」そのものが問題だったというよりは、「茶法」の制定に至るまでに、イギリス政府とアメリカ植民地人の間に、すでに対立が生じていたことが問題でした。「茶法」そのものは、これまでイギリス政府がアメリカに課してきた諸税に比べれば、良心的といえるものでした。
イギリス政府は「茶法」にどんな狙いを込めたのか、そして植民地人は「茶法」をどのように理解したのか、以下にまとめました。
イギリス議会が定めた「茶法」の目的とは
イギリス議会が、同年5月10日に制定した「茶法」には大きく2つの目的がありました。
1.イギリス東インド会社(British East India Company)の救済
イギリス領産の茶葉は、いちどイギリスに集約されてから輸出されるため、中間コストが嵩んで末端価格が高くなっていました。このため北アメリカでは安い外国産の茶葉の密輸が横行しました。
密輸茶葉にシェアを奪われ、「イギリス東インド会社」は倒産の危機にありました。
そこでイギリス政府は、東インド会社の茶葉だけは特別に、会社自らが植民地に直接販売してもよいとする法案を可決しました。
この特別措置によって中間コストをカットし、茶葉の末端価格を下げて、北アメリカでの合法の茶葉の購入を促す狙いです。
2.北アメリカ13植民地で徴収する茶税による歳入増加
イギリス政府は度重なる戦争で財政が赤字でした。北アメリカにおけるフランスとの領土争いも、そのひとつです。
このため北アメリカに輸出する茶葉やその他の物品に税金をかけて歳入につなげたい狙いがありました。
しかし密輸品にシェアを奪われてしまっては元も子もありません。イギリス政府は、合法茶葉の末端価格を下げることで、売上を伸ばし、ここから確実に徴税したい考えでした。
また、北アメリアの駐在員や駐屯兵への給与等もこのような税金でまかなわれていました。
植民地人は「茶法」をどのように理解したのか
北アメリアの植民地人が「茶法」の施行に対して抱いた考えや不満は、大きく分けてつぎの3つがあります。
1.茶葉の価格にごまかされるな、問題は「イギリス議会に植民地人の代表がいない」こと
じつは「茶」以外の数々の品物を課税対象にする法令が、1760年代に発布されていました(Townshend Acts など)。しかしいずれも植民地人からの抵抗が激しく(売れ行きが悪くなるためイギリス本国の商人からも不評で)発布の数年後にはそのほとんどを廃止せざるをえませんでした。
そうしたなかで「茶」への課税だけが廃止されずに残されていました。
課税に抵抗した植民地人のスローガンは「代表なくして課税なし」です。植民地に関する重要な法案さえも、植民地人の代表の席がないイギリス議会で審議され勝手に可決されていました。植民地人は何よりもこの点に不満を抱いていたのです。
「茶法」によって合法的に安く買えるようになった茶葉を買い求めることは、イギリス政府による「課税」を認めることになります。すなわち「植民地代表のいないイギリス議会を黙認する」ことになる、というわけです。
この点を主張したサミュエル・アダムス(Samuel Adams)らが、イギリス領産の茶葉の輸入を拒否し、市民に喚起をうながしました。
2.自分たちが納める茶税で、憎き官僚や連隊の費用がまかなわれるのは不本意
イギリス政府は植民地に「総督」を配置していました。総督とは、イギリス政府を代理して植民地の政治や軍事をつかさどる官僚です。自治を好む植民地人とは対立する関係になっていました。植民地人は、イギリス政府の派遣する総督や官僚や駐屯兵を維持するための税金は、たとえ安くても支払いたくなかったのです。
ボストンでは1770年に、兵士が民間人に発砲する事件も起きていました。プロパガンダも手伝って、植民地人による役人への敵視は取り返しのつかない状態になっていたのです。
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抜粋文:民間人と揉め事を起こしたひとりの護衛官が助けを求め、プレストン大尉率いる数人の兵士が援護に駆け付けました。見物に集まった大衆は兵士に雪玉や石を投げ、さらには大尉.....
3.密輸商人にとってビジネス存続の危機
植民地の(密輸)商人も激しく抵抗しました。なぜなら…
- 安い茶葉が合法的に輸入されると、オランダの密輸茶を取り扱っていた商人が生存危機にさらされる
- 合法茶葉の取引契約ができない業者は、生存危機にさらされる
といった個人的な都合や、
- イギリス東インド会社に与えられた茶葉市場の独占が、今後イギリス議会の独断によってほかの商品にも適用される恐れ
などの不安があったためです。
参考
Boston Tea Party
Intolerable Acts
Boston Port Act