「ボストン茶会事件」は、急進派の植民地人(Sons of Liberty)による「茶法(Tea Act)」への抵抗、ひいてはイギリス議会への抵抗運動です。茶葉は「イギリス東インド会社」から輸入される予定のものでしたが、ボストンでは40トンの茶葉が船から海に投げ捨てられました。
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抜粋文:「ボストン茶会事件」は、急進派の植民地人による「茶法」への抵抗、ひいてはイギリス議会への抵抗運動です。茶葉は「イギリス東インド会社」から輸入される予定のものでし.....
他の港に到着した船は、荷を積んだまま引き返していた
ボストン以外の3つの港に到着した船もおなじく、茶葉の荷下ろしを拒絶されました。これらの港では、現地の総督がしぶしぶながらも植民地人の拒絶要求を受け入れたので、船は荷を積んだまま引き返していました。
ところがボストンの総督トーマス・ハッチンソン(Thomas Hutchinson)だけは、期限をもうけて茶葉の荷下ろしを断行しようとしました。そのため、12月16日の夜に「ティー・パーティ」が起こったのです。
違法行為なのでインディアンの衣装をまとって実行
ボストンの抵抗者はアメリカン・インディアン(American Indians)の衣装をまとって、茶葉を海に投げ捨てました。アメリカン・インディアンの衣装をまとうことで、違法行為を行う個々人が特定されにくくなりました。またイギリス国民としてよりもむしろ北アメリカに所属している人間、というアイデンティティを表明する意味があったとも云われています。
東インド会社が被った損害は、現在価値で約1億7千万円相当
12月16日の夜、アメリカン・インディアン(Mohawk people)に扮した30人~130人のグループがボストン港に停泊していた3隻の船にのりこみ、3時間かけて、茶が詰まった342個のケースを海に投げ入れました。イギリス東インド会社が被った40トンの茶葉の損失は、価格にして9,659ポンドにおよびました。現在通貨価値で約120万ポンド、日本円にして約1億7千万円です。
イギリス政府による強制諸法がアメリカ独立戦争へつながる
「茶会事件」に、イギリス政府は厳しく応じました。1774年イギリス議会は「強制諸法(Coercive Acts)」と総称される懲罰的な一連の法を通過させます。マサチューセッツの自治権を剥奪し、ボストン港を封鎖しました。
イギリス政府が布く様々の条令に対抗するため、13植民地は「第一次大陸会議(First Continental Congress)」を招集して条例の撤回を求めますが受け入れられず、両者の対立は最高潮に達しました。1775年、ついにボストン近くでアメリカ革命戦争が勃発し、翌年には「独立」を宣言して戦いが続くことになりました。
マサチューセッツの自治権の剥奪とは
13植民地はそれぞれ自治権を与えられていましたが、マサチューセッツはこれを剥奪されます。この処置に13植民地すべてが憤慨し、1775年4月にはじまるアメリカ革命戦争(American Revolutionary War)の重要なトリガーとなりました。
ボストン港の封鎖とは
「東インド会社が被った損害」と「納入される予定だった課税額」の返済が終わるまで、ボストン港を封鎖することをイギリス政府が議決しました。どんな船の入出航も禁止されたのです。これを徹底するためにパトロールを任されたのは英国海軍でした。
港封鎖のために生活物資が不足し、マサチューセッツに同情的な他の植民地から救援物資が補給されました。
ボストン茶会事件博物館
ボストン茶会事件博物館は、ボストンのコングレス・ストリート・ブリッジ(Congress Street Bridge in Boston)にあります。再現ドキュメンタリーや、数々の展示品を見ることができます。博物館には当時の船のレプリカもあります(Eleanor と Beaver)。
ボストン茶会事件博物館
参考
Boston Tea Party
Intolerable Acts
Boston Port Act