1770年に起きたボストン虐殺事件は、「英国政府や駐屯兵は植民地人の敵である」ことを印象付ける悲劇的な事件として、13植民地に広く報道されました。
しかし兵士を挑発した大衆の中には、あらかじめ武装していたメンバがいたとの証言もあるようです。反英の植民地人が、なにかを計画していたのかもしれません。真相はわかりません。ただ兵士による発砲に至るまでに、民間人は兵士に雪玉や石を投げつけました。棍棒をたずさえて歩み出た者さえいました。
3月5日の夜
関税局の護衛の任にあたっていた私兵ヒュー・ホワイト
1770年3月5日の夜、ヒュー・ホワイト(Private Hugh White)はボストン関税局の建物(Boston Custom House)の護衛の任にあたっていました。彼は第29歩兵連隊の私兵でした。
第29歩兵連隊は、法の施行と反乱抑制のために植民地大臣ヒルズボロ子爵の要請を受けて英国から派遣されていた連隊です。1768年10月から駐屯していました。
去る2月22日には、王党派(トーリー)の雇われ兵エベニーザー・リチャードソン(Ebenezer Richardson)が、反王党派の民衆のひとりである11歳の少年に発砲し、死に至らしめてしまう事件が起こっていました。これをうけて「反英の植民地人」と「関税局および兵士」との間には緊張が張りつめ、何が引き金となってもおかしくない情勢となっていました。
ヒュー・ホワイトの前に、准大尉を侮辱する少年が登場
午後8時頃、10代の少年グループがボストン関税局の近くを歩いていました。同じとき、英国陸軍の准大尉(Captain-lieutenant)ジョン・ゴールドフィンチ(John Goldfinch)がたまたまその近くを通りかかります。
ウィッグ店の見習いだった13歳のエドワード・ジェリック(Edward Garrick)は、ゴールドフィンチ准大尉を見つけると言いました、「ゴールドフィンチは、代金の支払いを拒否したぞ!」。しかしゴールドフィンチ准大尉の支払いは、実は前日に済んでいましたので、准大尉はこの侮辱を聞き流すことにしました。
この様子を見ていたのが関税局の護衛にあたっていた私兵ヒュー・ホワイトです。彼はジェリックに対し、士官に敬意を払うよう注意を促しました。
護衛官ヒュー・ホワイトと少年たちの騒動が通行人の注意をひく
ところがジェリックは、ゴールドフィンチ准大尉の胸を突き始めます(准大尉に雪玉を投げつけた、と書いている記事もあります)。私兵ヒュー・ホワイトは持ち場を離れてジェリックに詰め寄り、彼のあたまをマスケット銃で殴りました。
その痛みからジェリックは大声を上げました。ジェリックの仲間は私兵ヒュー・ホワイトと言い争いを始めます。これが通行人の注意をひきました。集まった大衆のなかには、当時19歳のヘンリー・ノックス(Henry Knox)もいました。後の独立戦争で将軍を勤める人物です。
教会の鐘が鳴らされました。ふつうは火事を知らせて人々を家の外へと導くために鳴らされる鐘です。夜が深くなるにつれ、ヒュー・ホワイトらを取り巻く大衆は増えはじめ、騒がしくなりました。
護衛官が大衆から攻撃をうけて救援を求める
混血の元奴隷クリスパス・アタックス(Crispus Attucks)に率いられた50人以上の人々が、私兵ヒュー・ホワイトに詰め寄り、物を投げつけて挑発しました。
ヒュー・ホワイトは、関税局の建物に後退し助けを求めました。知らせは近くの兵舎にいた大尉トーマス・プレストン(Captain Thomas Preston)に伝わます。
プレストン大尉が7人の兵を引き連れて援護に駆け付ける
プレストン大尉は、第29連隊の1人の下士官と6人の私兵を引き連れて助けに駆け付けました。大尉らは群衆をかき分けて進み、私兵ヒュー・ホワイトのところまで到着すると、マスケット銃に弾を込めて半円形に布陣しました。300~400人いたと思われる群衆に対して、プレストン大尉は声を張り上げ、解散するよう命じました。
エスカレートする大衆からの攻撃と挑発
しかし群衆は兵士の周りに押し寄せることをやめず「撃ってみろ!」と挑発を続けました。唾を吐き、雪玉や小物を兵士に向かって投げつけました。
宿屋を営むリチャード・パルメス(Richard Palmes)が棍棒をたずさえて兵士の前に歩み出ます。プレストン大尉に詰め寄り「銃は装填されているか」と尋ねました。銃は装填されていました。しかし、大尉が命令するまで発砲されることはありません。大尉には発砲を命じるつもりがなかったことを裏付ける理由として、銃を構える兵士らの前に立っていたことが、後の供述で述べられています。
それにもかかわらず銃は発砲され、事件は起こります。
大尉の命令を待たずして発砲「ボストン虐殺事件」の瞬間
群衆が投げたものが、私兵のひとりヒュー・モンゴメリー( Hugh Montgomery)に強く当たり、彼は倒れて銃を落としました。銃を拾い上げたモンゴメリーは激怒して、発砲命令のないまま、群衆に向かって発砲したのです。
宿屋のパルメスはモンゴメリーに向かって棍棒を振り下ろしました。彼の腕を打ちつけると、続いてプレストン大尉の頭に向かって棍棒を振り上げました。棍棒は大尉の頭をわずかに外れて、腕に当たりました。
目撃者の証言によると、この瞬間から兵士らの一斉射撃まで、時間にして数秒~2分くらいであったそうです。プレストン大尉が命じた斉射ではありませんでした。
兵士らが撃った弾は11人に当たり、即死した3人の中にはクリスパス・アタックスがいました。跳ね返った弾が、17歳の見習い象牙加工師の背中にあたり、彼は翌朝死亡しました。アイルランドからの移民パトリック・カー(Patrick Carr)は翌週に亡くなりました。

総督ハッチンソンが大衆に虐殺事件の尋問を約束し、一時的に事態を収拾
群衆はその場から離れましたが、距離を保った近くの通りに増え続けました。プレストン大尉はただちに第29連隊を招集し、議事堂の護衛にあたらせました。
総督代理のトーマス・ハッチンソン(Thomas Hutchinson)が現場に呼び出され、群衆に押されながら議事堂に入りました。
ハッチンソンは議事堂のバルコニーから群衆に呼びかけ、最小限の秩序を取り戻します。ハッチンソンは群衆に「現場から退散するならば、この事件の尋問を行う」と約束しました。
ジョン・ギレスピー(Mr. John Gillespie)の供述
民衆による兵士への襲撃が計画されていた可能性
事件の日、ジョン・ギレスピーはパブで友人らに会うために町の南へ向かっていました。道中の通りで40~50人ほどと思われる集団を見かけました。パブで友人を待っている間、彼は先ほど見かけた集団を思い出し何人かが棍棒で武装していたことに気づきました。
20時30分頃、教会の鐘が鳴りました。彼と友人らは火事だと思いましたが、オーナーは「野次馬集めだよ」と言いました。ギレスピーはこれを機に家に帰ることにしました。
その帰路、彼と反対の方向へ駆けてゆくの何人かとすれ違いました。彼らは手に棍棒やステッキ、その他の武器を持っていました。これと同時に、2台の消火車を運ぶ人々とすれ違いました。彼らは「火事ではなく大衆が兵士との戦いに向かっているのだ」と知らされ、すぐさま消火車をおいて後援に向かうことを誓っていました。
これらすべては、兵士が関税局ちかくでマスケット銃を発砲する前、つまり21時半よりも前に起こりました。すなわち住民はこの夜の兵士への襲撃を計画し準備していたことを示唆しています。
意訳です。なにか間違ってるかもしれません。—Excerpt from A Fair Account, suggesting that the colonists planned the attack on the soldiers[45]

参考
Boston Massacre
Colonial government in the Thirteen Colonies