ヘンリー8世と2番目の妃アン・ブーリンの娘として産まれたのがエリザベスです。教養に長けた賢明な女性であったとされています。国民からの人気も高く、有能なアドバイザーを選定する能力がありました。
エリザベス1世の治世は「黄金時代」「エリザベス朝時代」とも呼ばれます。海軍および冒険家のドレイク、ローリー、ホーキンスや、政治についてはセシル父子、最後には反逆罪で処刑されるエセックス伯らが活躍しました。無敵と言われたスペイン艦隊を撃破して新大陸への道を切り開き、植民地バージニアが築かれました。文学においては、劇作家ウィリアム・シェイクスピアが活躍しました。
エリザベス1世は生涯、結婚しませんでした。そのためバージン・クイン(処女王)とも呼ばれます。王位はスコットランド国王でありヘンリー7世の血もひくジェームスに継承されました。エリザベス1世は、テューダー家最後の君主です。
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エリザベス1世(The Virgin Queen)
治世 | 1558年11月17日-1603年3月24日(44年128日) |
継承権 | ヘンリー8世の娘 第三継承法(Third Succession Act) |
生没 | 1533年9月7日:場所 グリニッジ宮殿(Greenwich Palace) 1603年3月4日(69歳):場所 リッチモンド宮殿(Richmond Palace) |
家系 | テューダー家(Tudor) |
父母 | ヘンリー8世(Henry VIII) アン・ブーリン(Anne Boleyn) |
結婚 | ー |
子供 | ー |
埋葬 | Westminster Abbey |
年表
1558 | 異母姉メアリ1世の崩御にともなって、エリザベスが即位 |
1559 | 1月:エリザベス1世の戴冠式がウェストミンスター寺院で行われる |
フランス王家に嫁いでいたスコットランド女王メアリ、夫の王位継承にともなってフランス王妃ともなる ※フランス国王が翌年に死去し、メアリはスコットランドに帰国 | |
プロテスタント派教会の復活(Acts of Supremacy) エリザベス1世がイングランド国教会の最高権威(Supreme Governor)となる | |
エリザベス1世版の祈祷書が発行される ※エドワード6世版よりも、いくぶん緩和した内容 | |
1560 | エリザベス1世、ウェストミンスタースクールを設立( Westminster School ) |
1562 | ホーキンスとドレイクがアメリカへ向かい最初の「奴隷貿易」を行う( Hawkins と Drake ) |
フランスのユグノー戦争( French Wars of Religion )において、プロテスタント派のユグノーをエリザベス1世が支援 イングランド軍がディエップとルアーブルを占領 | |
1563 | ジョン・フォクス著『殉教者の書( The Book of Martyrs )』がイングランドで発行される |
黒死病が再流行し、翌年を含んで約17,000人が死亡 (フランスに遠征していた軍兵が持ち帰ったと信じられた) | |
1564 | トロワにてフランスとイングランドの和解が成立( Treaty of Troyes ) |
1565 | ウォルター・ローリー( Walter Raleigh )が新大陸からジャガイモとタバコを持ち帰る |
1566 | エリザベス1世、議会に対し自身の結婚に関する議題を禁止する |
1568 | スコットランド女王メアリが、スコットランドのプロテスタント派に追われイングランドに亡命するも、エリザベス1世によって投獄される スコットランドに残された息子ジェームスはプロテスタント教育を受けて育つ |
1570 | ローマ教皇ピウス5世がエリザベス1世をローマ教会から追放 |
1577 | フランシス・ドレイクがゴールデンハインド( Golden Hind )で出航 |
1579 | アランソン公爵フランシス( Duke of Alencon )がエリザベス1世との結婚を目指してお忍びでイングランドに渡る |
1581 | ゴールデンハインドで世界一周を成して帰還したフランシス・ドレイクが、エリザベス1世によってナイトに叙せられる |
1584 | ウォルター・ローリーがアメリカに最初の植民地を築き「バージニア」と命名 ※エリザベス1世のニックネーム「バージンクイーン(処女王)」にちなむ |
レスター助祭長ロバート・ジョンソンがオークハム学校を設立( Oakham School ) | |
1585 | ウィリアム・シェイクスピアが、劇作家を志して故郷ストラトフォードを去りロンドンに向かう |
1586 | エリザベス1世の暗殺計画バビントン事件( Babington Catholic plot ) |
スコットランド女王メアリ、バビントン事件にかかわったとして裁判にかけられる | |
1587 | スコットランド女王メアリ、エリザベス1世への反逆罪で処刑される( Fotheringhay Castle ) |
ドレイクがカディスでスペイン艦隊を攻撃し、勝利 | |
ローリーの第二回航海、ノースカロライナへ | |
1588 | エリザベス1世のお気に入りレスター伯ロバート・ダドリーが死去 |
130隻から成るスペイン艦隊が、悪天候の条件下で、ドレイクとホーキンス率いるイングランド海軍に破れる イングランドに、アメリカ大陸およびインドとの交易の道が開かれる | |
エセックス伯( Earl of Essex )がアイルランドへ遠征 | |
1589 | 140隻から成るイングランド艦隊をドレイクが率いて残りのスペイン船を駆逐する計画、大失敗 40隻を失い、15,000人が戦死、ポルトガルおよびアゾレス諸島への足掛けも成らず |
ジョン・ハリントンが最初の「水洗トイレ」を発明( first flushing water closet ) エリザベス1世、リッチモンド宮殿( Richmond Palace )にこれを設置 | |
1590 | シェイクスピアが『ロミオとジュリエット』『真夏の夜の夢』を執筆 |
1593 | 黒死病の再流行、15,000人のロンドン人が死去 劇場が1年間閉鎖される 劇作家クリストファー・マーロウ( Christopher Marlow )が殺害される |
1595 | ウォルター・ローリーが南米大陸へ向けて出港 伝説の黄金都市エルドラド( El Dorado )を求めて300マイル(48万キロ)を航行 |
1599 | タイロン伯がアイルランドにて、イングランドに対する反乱を率いる |
グローブ座がロンドンにオープン( The Globe Theatre ) | |
1600 | 東インド会社の設立 |
1601 | エセックス伯、エリザベス1世への反乱を率いた罪で処刑 |
貧民救済法( Poor Law )の導入 | |
シェイクスピアの『ハムレット』が初上演 | |
1603 | エリザベス1世、リッチモンド宮殿で崩御 |
おもなできごと
ヘンリー8世と2番目の妃アン・ブーリンの娘
エリザベスの父母はヘンリー8世と2番目の妃アン・ブーリンです。母アンは、エリザベスが2歳の時に処刑されました。アンとヘンリー8世の結婚は無効化されたため、エリザベスは異母姉メアリ同様に私生児として扱われました。
しかしヘンリー8世が亡くなる前に「第二継承法」が定められて、エリザベスは、異母弟エドワードと異母姉メアリに継ぐ王位継承権を与えられました。
ところがヘンリー8世の跡を継いだエドワードは、1553年に15歳で亡くなる直前に、後継者にジェーン・グレイを指名しました。ヘンリー8世が定めた「第二継承法」に従わなかったのです。しかしこの遺言が叶うことはなく、異母姉メアリがメアリ1世として即位しました。
メアリ1世の治世下で投獄された1年
メアリ1世はカトリック信者ですが、エリザベスはプロテスタント教育を受けて育ちました。メアリ1世は、エリザベスが反逆に加担したのではないかと疑い、エリザベスを約1年間投獄しました。
即位後イングランド国教会を復活
1558年にメアリ1世が子供のないまま亡くなったので、エリザベスが王位を継承することになりました。エリザベスは信頼できる評議会を設置し、政治についてウィリアム・セシル( William Cecil、のち初代バーリー男爵)をはじめとするアドバイザーに頼りました。
エリザベス1世の最初の任務は、イングランド国教会を復活させ、自身がその最高権威に就くことでした。
エリザベスは父ヘンリー8世や異母弟エドワード6世よりも、おだやかな統制を行いました。エリザベス1世のモットーのひとつは「私は見るが、語らない( video et taceo )」でした。宗教問題には比較的寛容な態度で臨み、組織的な迫害を行うことを避けました。
エリザベス1世の暗殺計画
1570年にローマ教皇が「エリザベスの王位は僭称であり違法である」と宣言しました。これ以降、エリザベス女王を暗殺する陰謀が、いくつか巻き起こります。ただしいずれも、エリザベス女王の大臣( Francis Walsingham )が抱える諜報員の活躍によって、事なきを得ました。
スコットランド女王メアリの処刑
スコットランド女王メアリはカトリック信者でした。プロテスタント派に追われ、エリザベスを頼ってイングランドに亡命してきました。しかしエリザベス1世は立場上、手を差し伸べることができず、「投獄」という形をとって命は保護しました。ところが数年後、メアリがエリザベス1世の暗殺計画に関わったことが明るみになります。このとき処刑が避けられないものとなりました。
なおメアリの息子ジェームスは当初からスコットランドに残されており、スコットランド王ジェームス6世として、プロテスタント教育を受けて育ちました。エリザベス1世の崩御にともなって、イングランド王位を継承するのがジェームス6世(イングランド国王としては1世)です。
慎重な外交政策をとるも対スペイン戦は不可避
エリザベス1世は、国際政治についても注意深く行いました。大国であるフランスとスペインのパワーバランスを鑑み、周辺国からの援助要請にも、あえて効果的な軍事支援は行いませんでした。しかし1580年半ば以降は、イングランドとスペインの対立と戦争は避けて通れないものとなりました。(Anglo-Spanish War)
バージン・クイーン「処女王」
エリザベス1世は、結婚して世継ぎを産むことを期待されていました。しかし、いくつもの求愛を断りつづけ、結婚することはありませんでした。
エリザベスは成長するにつれ、「処女( virginity )」であることを称賛されるようになりました。当時の絵画作品や公演や文学から、エリザベス1世に対する人格崇拝が起こっていたことがわかります。
治世の終わりが近づくにつれて、経済的および軍事的な問題がイングランドに影をおとすようになり、エリザベス1世の人気にも陰りが見え始めました。
歴史家のなかにはエリザベス1世について「短気で優柔不断で、本来与えられるべき幸運以上に幸運だった」と評価するひともいます。しかし、宗教問題や命を狙われる困難な時代に生き延び君臨し続けたことからも、賢明で屈強な女性であったと考える向きが多数派のようです。
王国に安定の基盤を築いた44年の治世
エリザベス1世による44年の治世は、王国に安定の基盤をもたらし、国民的アイデンティティを築くことに寄与するものとなりました。
エリザベスの治世は「エリザベス朝時代( Elizabethan era )」としても知られています。シェイクスピア(William Shakespeare)やクリストファー・マーロウ(Christopher Marlowe)などによる演劇が成功をおさめ、フランシス・ドレイク(Francis Drake)やウォルター・ローリー( Walter Raleigh )が活躍するイングランド艦隊の台頭、海の向こうへの探索(大航海)で名高い時代です。
エリザベス1世はテューダー家最後の君主となりました。エリザベス1世の跡を継いだのは、スコットランド王ジェームス6世(ステュアート家)です。イングランドとスコットランドが同君連合となり、のちにグレートブリテン王国へと発展する礎となりました。
地図
ゴールデンハインド
1577年にフランシス・ドレイクが船長として乗船したゴールデンハインドのレプリカをロンドンで見ることができます。屋外に展示されているので外観は自由に見ることができます。有料で乗船することも可能です。
本物のゴールデンハインドは日本に停泊することはありませんでしたが、このレプリカは日本に寄港し、アメリカが制作したサムライ映画のワンシーンにも登場しています(将軍 SHOGUN)。
プラセンティア宮殿(グリニッジ宮殿)
エリザベスが産まれた宮殿です。
16世紀にヘンリー7世によって拡張され、王家の居所となっていました。グリニッジに位置するため、グリニッジ宮殿としても知られています。17世紀後半にチャールズ2世によって主な部分が解体されました。新たな宮殿を建てるためだったとされていますが、実際に宮殿が建つことはありませんでした。
チャールズ2世の死後、同地に「グリニッジ病院」が建設されました。これは海軍の傷痍軍人※のための施設で、19世紀末まで運営されました。その後は1998年まで海軍学校として利用されたので、現在は「旧海軍学校」と呼ばれています。敷地の一部の建物は観光客に公開されています。
※戦場あるいは公務中に後遺的な身体障害となる傷を負ったり、病気になった軍人
参考
Elizabeth I
Queen Elizabeth I (1558 – 1603)
Elizabeth I and the Earl of Essex
A Brief History of British Kings & Queens