初代シドマス子爵ヘンリー・アディントン

初代シドマス子爵ヘンリー・アディントン

Henry Addington, 1st Viscount Sidmouth
初代シドマス子爵ヘンリー・アディントン

Portrait of Henry Addington (1757–1844)
生誕1757年3月30日 Holborn, Middlesex, England
死没1844年2月15日 White Lodge, Surrey, England / St Mary the Virgin, Mortlake
Anthony Addington: 医師
職業/奉仕首相(1801-1804)
枢密院議長(1805、1806–07、1812)
王璽尚書(1806)
内務大臣(1812-1822)
支持/所属トーリー党
思想反革命
Henry Addington, 1st Viscount Sidmout

概要

ヘンリー・アディントンは、トーリー党の政治家です。1801年~1804年にイギリスの首相をつとめ、在任中の1802年にナポレオン率いるフランスと「アミアンの和約( Treaty of Amiens )」を結びました。

1812~1822年にはリヴァプール伯爵内閣で内務大臣( Home Secretary )をつとめ、 民主的改革に対する厳しい取り締まりを行ったことで知られています。

高名な医師の長男として生まれる

ヘンリー・アディントンは、ロンドンの名高い医師 Dr Anthony Addington の長男として生まれました。Dr Anthony Addingtonは、チャタム伯爵( William Pitt the Elder )の主治医でした。このためアディントンは、幼いころからウィリアム・ピット( William Pitt the Yonger )の友達でした。

アディントンは、Reading SchoolWinchester College を経て、Brasenose College, Oxford そして Lincoln’s Inn で学びました。

政界進出

首相になるまでの概略

1784年(27歳)に法廷弁護士( Barrister )となり、また同年 Devizes の議員( MP )となります。幼なじみの ウィリアム・ピット( William Pitt the Yonger )の影響とサポートがあり、1789年には議長( Speaker )となりました。

1801年、首相であったウィリアム・ピットは、連合国アイルランドの反感をゆるめるために「カトリック解放( Catholic emancipation )」を支持しました。このことから国王ジョージ3世( George III )と折り合いがつかなくなり、首相を辞任します。このとき、国王がヘンリー・アディントンを後継者に適任とみなしました。アディントンは強硬な英国国教会教徒でした。こうして、アディントンは首相をつとめることになります。

James Gillray caricatured Pitt’s resignation in Integrity retiring from Office! (1801).

アディントン内閣期
首相の座につきアミアンの和約を締結

かねてよりイギリス軍は、ナポレオン率いるフランス軍に戦勝をかさねていたので、アディントン内閣のすべりだしは上々でした。首相在任中、アディントンは「平和」を求めることを優先しました。とくに「軍事的な紛争は経済的に困難である」というのが理由でした。

対戦中であったフランスと和平交渉をすすめ、1802年3月に「アミアンの和約( Treaty of Amiens )」を結ぶにいたります。この条約はイギリスにとって許容できる最低限の条件でしたが、支持者はおおかったようです。休戦中に財政改革をおこない、イギリスの経済は戦争を再開できる程度に回復しました。

Page of the Treaty with the eight seals and the eight signatures of the signatories

1803年に戦争の再開を宣言してからのちは、アディントンの無能さが露呈したようです。ウィリアム・ピットが公然とアディントン内閣を批判するようになり、1804年5月10日、アディントンは首相を辞職します。ウィリアム・ピットが再び首相に就任しました。

第二次ピット内閣期
シドマス子爵に叙せられる

アディントンはしかし、重要な人物として政界にとどまりました。庶民院( House of Commons )に多くの支持者を得ていたからです。

1804年12月には、ロバート・ジェンキンソン (のちの第2代リバプール伯)の仲介でウィリアム・ピットとも和解しました。翌1805年1月にアディントンは、枢密院議長( Lord President of the Council )としてウィリアム・ピット内閣に加わります。庶民院に在籍していたアディントンは、便宜的な理由から「子爵」の爵位を授かって貴族に叙せられることになりました。

ウィリアム・ピットと再び折り合いが悪くなった1805年、アディントンは ロバート・ホバート( 4th Earl of Buckinghamshire )とともに、支持者を連れてピット内閣を去ります。

グレンヴィル内閣期

1806年、ウィリアム・ピットの死をうけて次の首相となったウィリアム・グレンヴィル( 1st Baron Grenville )が Ministry of All the Talents を編成します。アディントンは、王璽尚書( Lord Privy Seal )として配属され、まもなく枢密院議長職に再任命されますが、やがて辞任しました。

リヴァプール伯内閣期
民主改革・急進派の弾圧で悪名を馳せる

1812年にリヴァプール内閣が成立すると、枢密院議長( Lord President )として加わり、同年の6月には内務大臣( Home Secretary )に就任し1822年1月まで在職します。この時期、物価の高騰、事業に失敗した人々、失業者の増加などによって国内の情勢は不安定でした。

ヘンリー・アディントンは、民主的な改革を求める運動や急進派に対する弾圧をおこなったことで有名です。在任期間の主な法案や事件は次の通りです。

Habeas Corpus Suspension Act 1817
国王または政府に反逆を企てている恐れのある人物を捕え留置する権利を国王に与える法案。

Six Acts in 1819
民衆の集会に制限をくわえ、政治的出版物の検閲を強化する法案。

Peterloo Massacre of 1819
マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールド( St. Peter’s Field )で発生した民衆弾圧事件。議会改革を訴える Henry Hunt が決行した大衆集会に、治安判事の命令をうけた軍が突入し民衆に死傷者をだした 。

Cato Street Conspiracy
急進派の集会に内通者をしのばせて内閣メンバ殺害計画を扇動し、罠にかけて逮捕し処刑 。

The arrest of the Cato Street conspirators.

1822年に ロバート・ピール( Robert Peel )が内務大臣職を継いだあとも、アディントンは無任所大臣( Minister without Portfolio )として内閣にとどまりました。カトリック解放に反対し、1832年の改革法( Reform Act 1832 )にも反対票を投じています。

1844年2月15日、ロンドンのモートレイクで死去しました(86歳)。

参考
Henry Addington, 1st Viscount Sidmouth
History of government
Britannica: Henry Addington, 1st Viscount Sidmouth
Addington ministry