18世紀、イギリスは北アメリカに13の植民地をもっていました。港町ボストンで大衆(植民地人)がイギリス兵を挑発し物を投げつけ、怒った兵のひとりが発砲しました。つづいて、上官の命令がないまま、数人の兵士が大衆に向かって一斉に射撃し、民間人が命を落としました。これを「ボストン虐殺事件」といいます。
ボストン虐殺事件とは
護衛官の援護に駆け付けた数人の兵士が大衆に向かって発砲した事件
ボストン虐殺事件は、1770年3月5日に起こりました。
民間人と揉め事を起こしたひとりの護衛官が助けを求め、プレストン大尉率いる数人の兵士が援護に駆け付けました。見物に集まった大衆は兵士に雪玉や石を投げ、さらには大尉を棍棒で殴る者まであらわれました。
これに驚いた兵士らが勝手に発砲し始めてしまいました(大尉は発砲を命じていません)。弾は11人に当たり、3人は即死、重軽傷を負った8人のうち2人は怪我がもとで後ほど亡くなりました。
現場に呼び出された総督代理のトーマス・ハッチンソン(Thomas Hutchinson)が、大衆に「殺傷事件として兵士に尋問を行う」ことを約束して、一時的に事態を収拾しました。
ボストン虐殺事件は、なぜ起こったのか
数々の条令によって、かねてよりイギリス議会と植民地人の間には亀裂が生じていた
1760年代、アメリカに課す税や兵の駐屯に関する様々の条令が、イギリス議会で勝手に決定されてきました。イギリス議会と植民地人の間には亀裂が生じ、現地に駐屯する兵も植民地人から敵視されていました。
ボストン虐殺事件は、「英国政府や駐屯兵は植民地人の敵である」ことを印象付ける悲劇的な事件として、13植民地に広く報道されました。
しかし兵士を挑発した大衆の中には、あらかじめ武装していたメンバがいたとの証言もあるようです。反英の植民地人が、なにかを計画していたのかもしれません。真相はわかりません。
その後
殺人罪で起訴されたメンバをジョン・アダムスが弁護、2人が有罪
3月27日、8人の兵士・プレストン大尉・4人の民間人が「殺人罪」で起訴されました。この民間人というのは関税局にいた人物で、大衆に向かって発砲したといわれています。
裁判は、1770年11月27日に行われました。被告人の弁護は、反英植民者からの信頼も厚いジョン・アダムス(John Adams)に依頼しました。ジョン・アダムスはのちのアメリカ大統領です。裁判の結果、6人の兵士には無罪が言い渡され、のこる2人は過失致死罪で親指に「M」の焼き印を押されました。Murder(殺人者) の M です。
メディアの影響
事件は「植民地人 VS イギリス兵」の構図で、絵や記事やプロパガンダによって13植民地に広く知れ渡りました。
第29連隊の撤退
ボストンの人々は連隊およびその関係者を敵視しつづけました。ゲイジ将軍は連隊の駐屯は利よりも害が大きいと判断し、5月に第29連隊を州から撤退さています。
参考
Boston Massacre
Colonial government in the Thirteen Colonies