初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール

初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール

ロバート・ウォルポールはイギリスの”初代”首相とみなされている政治家です。実権を握ったのは1721年~1741年です。

Robert Walpole, 1st earl of Orford
初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール

Walpole by Jean-Baptiste van Loo, 1740
生誕1676年8月30日 Houghton Hall, Norfolk, England
死没1745年3月18日 London(68歳)
Colonel Robert Walpole
Mary Burwell
Catherine Shorter, 1700年7月 –
功績/実績初代首相
支持/所属ホイッグ党
思想
Robert Walpole, 1st earl of Orford

ジェントリ階級の出身

1676年のノーフォークのグレートダナム(Great Dunham, Norfolk)に、同じ名前の父ロバート・ウォルポール大佐の三男として生まれました。ジェントリ階級の出身です。

1690年から96年までイートン校にて学び、96年からケンブリッジのキングスカレッジ(King’s College, Cambridge)に在籍しました。しかし兄エドワード(Edward)が亡くなったため、98年にノーフォークに戻って聖職に就き、父の財産管理を手伝います。

政界進出

順調な出世と、広い交友関係と、借金

1700年7月にキャサリン・ショーター(Catherine Shorter)と結婚してまもなく、実父が亡くなったため遺産を相続します。翌年には父と同じくノーフォークのキャッスルライジング区(Castle Rising)の議員になり、1702年にはキングスリン群(King’s Lynn)の議員になりました。ウォルポールの出世は早く、海軍本部員(Admiralty Board)、陸軍長官職(Secretary at War)、そして1709年には海軍財務長(treasurer of the navy)に就きました。

ウォルポールは、ホイッグ党の若いリーダーとして、社交でも政治面でも成功しました。キットカットクラブ(Kit-Cat Club)の主要メンバにもなりました。ホイッグ党の文士が集うクラブです。ウォルポールの交友関係は広く、しかし出費も多く重い借金もかかえており、公職(political office)に頼ってなんとか成り立っていました。けれども、給与や手当のために信念を曲げることはありませんでした。

投獄される
-宿敵はトーリー党のオックスフォード伯とボーリング・ブローク子爵

1710年から影響力を拡大し始めたトーリー党員によって、ウォルポールの出世は妨げられます。陸軍長官職としての汚職を弾劾され、1712年に一時的に投獄さえされました。初代オックスフォード伯爵(Robert Harley, 1st Earl of Oxford and Earl Mortimer)、初代ボーリング・ブローク子爵(Henry St John, 1st Viscount Bolingbroke) らは、ウォルポールの宿敵です。

Bolingbroke pictured alongside the earl of Oxford. Engraving after a painting by Sir Godfrey Kneller.

ハノーヴァー朝のはじまりと共にホイッグ党が優勢に
-リベンジを果たす

1714年、ジョージ1世が戴冠しハノーヴァー朝が始まります。トーリー党員には、ジョージ1世の王位継承に否定的な人物や、初代ボーリング・ブローク子爵らジャコバイトがいましたので、ジョージ1世はトーリー党を強く警戒しました。その結果、ホイッグ党がふたたび優勢となります。1715年にウォルポールは、第一大蔵卿(first lord of the treasury)および財務大臣(chancellor of the exchequer)に任命されました。宿敵にはしっかりリベンジを果たしました。

外交政策に関する問題で党員との不一致があり1717年に辞任しますが、その後も数々の成功をおさめて、1720年には軍主計長官(paymaster general of the forces)に任命されています。

南海泡沫事件の後処理を行い、初代首相になる

ウォルポールが主計長官に任命されてまもなく、南海泡沫事件が起こります。株価の高騰そしてまもなくの大暴落、バブル崩壊です。背景には会社の重役と政治家との裏取引がありました。

Hogarthian image of the 1720 “South Sea Bubble” from the mid-19th century, by Edward Matthew Ward, Tate Gallery

ウォルポール自身も南海会社の株は所有していました。ですが、先見性のある彼の銀行家 Robert Jacomb によって危機を免れました。また、ウォルポールはイングランド銀行が国債を引き受けることに票を投じており、南海会社と政治家の汚職事件にはかかわっていませんでした。ウォルポールはバブル崩壊の後処理を行った結果、政治的な権力を確実なものにしました。

1721年、ふたたび第一大蔵卿(first lord of the treasury)および財務大臣(chancellor of the exchequer)に任命されて、1742年までこの地位にとどまります(Walpole–Townshend ministry)。ウォルポールは事件に関与した全員を見つけ出すと約束しましたが、実際には主要な政治家たちの面目を守る必要があり、ほんの一部だけを犠牲にしました。

「南海泡沫事件」18世紀に起きたバブル崩壊
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ウォルポールは王室のサポートのもとホイッグ党の結束力を高めました。また外交上の平和政策をすすめ、低課税、国債の軽減に努めました。ウォルポールは議員を味方につけることの重要性も熟知していました。これらの政策は議会にいるジェントリ層に歓迎されました。

じつは「首相( prime minister )」という言葉はまだない

ウォルポールが得た地位は事実上の”首相”と考えられます。ただし首相( prime minister )という言葉は当時はまだ確立しておらず、20世紀を待つ必要があります。また現在の首相とは異なる点がおおくあります。たとえば、首相は議会によってではなく国王によって指名されました。彼の内閣を選ぶのも、首相よりもむしろ国王でした。職務や役目もまだあいまいです。

ジョージ2世から贈られた 10 down street は、現在の首相官邸

1727年にジョージ2世が戴冠すると、ウォルポールの地位は一時的期に、スペンサー・コンプトン(Spencer Compton)に取って代わられます。スペンサー・コンプトンはジョージ2世のお気に入りでした。このころ国王とウォルポールの関係は良好ではありませんでしたが、王妃キャロラインの助けを得てふたたび国王のお気に入りの地位に戻ることに成功しました。

1735年、ジョージ2世がウォルポールに 10 down street ( 10 Downing Street )を贈ります。しかしウォルポールはこれを私有物としてではなく「公的な官邸としてのみ受け取る」としました。これは現在、英国首相の官邸となっている建物です。

Number 10 Downing Street is the headquarters and London residence of the Prime Minister of the United Kingdom.

「ジェンキンスの耳の戦争」平和を維持できず不人気に

ウォルポールを快く思わない議員や関係者は、当時スペインとの間におこった商業上の紛争を巧みに煽り、国家間の紛争へと持ち込みました。1739年、ウォルポールは宣戦せざるを得ない状況に追い込まれます。これが「ジェンキンスの耳の戦争」として知られる戦争です。1741年に行われた総選挙では、ウォルポールの立場はいっそう不安定になりました。ホイッグ党内の政治家がウォルポールの戦争行為を批判し、ウォルポールは翌1742年2月に辞任するに至ります。

辞任後、ウォルポールはオーフォード伯爵に叙せられます。ジョージ2世に対する影響は維持しつづけ、1745年3月18日に亡くなりました。

「ジェンキンスの耳の戦争」でウォルポール首相が失脚
「ジェンキンスの耳の戦争」でウォルポール首相が失脚
戦争の名前は、イングランドの商船長ロバート・ジェンキンスの耳がスペイン兵に切断されたという事件に由来します。開戦の8年前の出来事ですが、反スペイン感情をあおる目.....

参考
Robert Walpole
Britannica
Walpole–Townshend ministry
BBC History Sir Robert Walpole (1676 – 1745)
Parliament of Great Britain