「南海泡沫事件」18世紀に起きたバブル崩壊

「南海泡沫事件」18世紀に起きたバブル崩壊
       

南海泡沫事件とは、18世紀におきたバブル崩壊です。実態とは異なる宣伝文句や、政治家の抱き込みによって株価を上昇させていた南海会社と、その手法を真似るペーパーカンパニーの乱立によって、株価全体が上がり続けました。

しかしペーパーカンパニーが法で裁かれると、その余波で南海会社の株も大暴落しました。イギリスの経済におおきな打撃を与えた事件です。

南海泡沫事件の「南海」とは、特別に目立っていた南海会社のことです。「泡沫」とは、株価のつり上げを狙って設立されたその他の会社(実体のないペーパーカンパニーが多数)の総称です。

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株価上昇と崩壊までのあらまし

18世紀は「株式会社」が注目を集めるようになる時代

18世紀は「合資(≒株式)会社」が注目を集めるようになる時代です。

投資家は公開市場で株を買い、リスクを負って利益の分け前を得ることができます。株の売買は両者が納得した価格で行われます。エリザベス1世のころから始まっていた手法ですが、その規模が一気に拡大したのがこの時代なのです。現金はお札(紙)のかたちで、株は株券のかたちで流通し、流動性をたかめました。

不確かな噂・誇大宣伝・操作・インサイダー取引などで、上昇した株価

不確かな噂や、誇大宣伝や、操作によって、南海会社を筆頭にどんな会社の株価も上昇しました。人々はお金を借りてでも株を買いました。

政府がペーパーカンパニーを裁いたはずみでバブル崩壊

政府は乱立するペーパーカンパニーを裁くことにしました。すると、これらの株価が一気に下がります。借金をして株を買っていたひとは、持ち株をすべて売る必要にせまられ、株価はますます下がります。

信用の高かった「南海会社」の株を担保に、お金を借りて他の会社の株を買っている人が大勢いました。彼らが南海会社の株を売れば、南海会社の株が下がります。南海会社の株は1720年をピークに7.5倍近い値になっていましたが、あっというまに当初の値まで大暴落しました。

バブル崩壊です。何千もの投資者が破産しました。これを南海泡沫事件( South Sea Bubble )といいます。

南海会社の欲が裏目に出た?

自社株の吊り上げを画策した「南海会社」が政府の主要メンバを抱き込み、自社だけが優位な地位を得ようと欲を張ってペーパーカンパニーを裁いてもらったと見る歴史家がいます。つまり欲を張ったために暴落に巻き込まれるという皮肉な結末を迎えたというものです。

南海会社とは

官民提携の貿易会社

南海会社( South Sea Company )は、1711年に創設された合資(≒株式)の貿易会社です。公債-国の債務-を軽減する目的をもって官民提携( Public–private partnership )で興されました。ただし、貿易業で利益があがらなかったため、次第に金融業へとその実態を変えてゆきます。

The map initially published in 1711 to illustrate a pamphlet

期待した利益がでていないのに、会社の信用度は上昇

当時、南アメリカの大部分を支配下においていたのはスペインとポルトガルです。1713年、南海会社はスペインから「奴隷貿易の権利」を得ました。スペイン領西インド諸島および南アメリカへ「アフリカ人奴隷」を供給する独占権です 。

スペイン継承戦争の和平条約のひとつであるユトレヒト条約に盛り込まれました( Asiento de Negros )。

南海会社の株は、よく売れていました。ところが上述の独占権は限られたものでしかなく、望んでいたような利益をえられませんでした。それにもかかわらず1718年、国王ジョージ1世が南海会社のガバナー( governor of the company )になったことから、会社の信用度は上がりました。

英語訳版のユトレヒト条約の表紙
出典 Wikimedia Commons

南海株の急騰と暴落

南海会社の株は上昇しました。そのピークは1720年におとずれます。南海会社が公債を肩代わりすることが決まったあと、高騰したのです。1月に130ポンドほどだった株価は、8月には1000ポンドを超えました。そして9月に大暴落するのです。12月には130ポンドを下回りました。

多くの投資家の破産を招き、結果として国民経済はおおはばに悪化しました。

Hogarthian image of the 1720 “South Sea Bubble” from the mid-19th century, by Edward Matthew Ward, Tate Gallery

バブル崩壊の理由を探る

南海会社の裏取引と株価のつり上げ

南海会社の関係者は事前に得られる情報をもとにインサイダー取引を行っていました。また、南海会社に有利な法案を通過させるために多額の賄賂が政治家に渡されていたのです。会社の資金は、本業よりむしろ自社株の売買に使われていました。

南海会社は、個々人に貸付(株担保融資)を行っていました。株を担保に融資を受けた人々は、その資金で新たに株を購入しました。

南海会社は、南アメリカとの奴隷貿易で得られる利益を誇大に宣伝し、莫大な利益を謳い、購入意欲を煽って、株価をつり上げていました。

これらの手口について詳しくは、次のサイトが、臨場感あふれるイラスト付きでおすすめです。

外部リンク南海泡沫事件:バブルの語源となった世界3大バブルの一つをわかりやすく解説

大暴落の引き金は、乱立していた合資会社が裁かれたこと

株価の釣り上げを狙って乱立した合資会社

株価を釣りあげたいのは南海会社だけではありませんでした。当時のイギリスには多くの他の合資(≒株式)会社が乱立していたのです。こうした会社を総称して「泡沫会社」と呼びます。このなかには実態のない奇妙な会社や、詐欺目的の会社も多数ありました。それにもかかわらず、泡沫会社の株は売れて値上がりしていたのです。

ペーパーカンパニーをさばく「泡沫法」の成立

1720年6月に議会を通過した泡沫法( Bubble Act )では、勅許状なしに合資会社を創設したり、許可なく事業の多角化を行うことが禁止されました。

株価の釣り上げを狙う合資会社は互いに投資家の資本を争います。南海会社にとって、乱立する合資会社は邪魔でした。泡沫法は泡沫会社を淘汰するだけでなく、それによって南海会社を優位な地位につけることを狙った法案だったという研究者もいます。

合資会社が裁かれ株価下落の連鎖

1720年に施行された泡沫法によって法で裁かれることになった泡沫会社の株は暴落しました。人々は、非常に信用の高かった南海会社の株を担保に借入れを行って、泡沫会社の株を買っていました。このため泡沫会社の株が下がってしまうと、損失を埋めるため南海会社の株を売らざるを得なくなります。このような連鎖が起き、売りたい人が多く、買いたい人が少ない状態になって、南海株も暴落しました。

庶民院が命じた調査で、南海会社の裏取引が明らかに

バブル崩壊のあと庶民院が南海会社の監査を命じました。この結果、南海会社の不正取引や癒着が明らかになり、数人の政治家と多くの南海会社の重役が恥をかきました。

モラルに反する取引を行っていた人々は、その利益に応じた資産を没収されました。

その後…

後処理で活躍したロバート・ウォルポールは初の首相に

バブル崩壊の後処理を行い注目をあつめたのがロバート・ウォルポールです。政治的な権力を得て、イギリス初の首相(と考えられる地位)となりました。ウォルポールは事件に関与した全員を見つけ出すと約束しましたが、主要な政治家たちの面目を守るため、実際にはほんの一部だけを犠牲にしました。

Walpole by Jean-Baptiste van Loo, 1740

関連記事イギリス初の首相:初代オーフォード伯爵ロバート・ウォルポール
抜粋文:ロバート・ウォルポールはイギリスの"初代"首相とみなされている政治家です。実権を握ったのは1721年~1741年です。ジェントリ階級の出身で.....

南海会社は建て直され、1835年まで存続

南海会社の本社は(  Threadneedle Street )にありました。ロンドンの金融街です。南海会社は建て直され、1835年まで存続しました。

The Dividend Hall of South Sea House, 1810

南海会社よりも少し前に創設されたイングランド銀行もまた、国家債務を取り扱う私立の会社でした。ライバルである南海会社の崩壊は、イングランド銀行の地位を確実なものにしました。


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参考
South Sea Company
britannica
History of Britain and Ireland: The Definitive Visual Guide

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