ハプスブルク家 OR ブルボン家
スペイン王位、どちらが継いでも脅威となる
1700年、スペイン国王カルロス2世( Charles II of Spain )が嫡子のないまま崩御しました。おおきな問題は、継承権を主張できる近縁の者が、オーストリアのハプスブルク家、もしくは、フランスのブルボン家のメンバだったことです。

当時のハプスブルク家の領土や支配域は現在のドイツ~東欧に及んでいました。他方のブルボン家はフランスの王朝です。太陽王ルイ14世( Louis XIV )の指揮下で勢力を伸ばし続けている大国でした。肝心のスペイン王国も、今日の国土より広大で、スペイン領ネーデルラント(ほぼ今日のベルギー)、イタリアの大部分、植民地としてフィリピン、南アメリカ大陸の大部分をふくんでいました。
ブルボン家( House of Bourbon )とハプスブルク家( House of Habsburg )のいずれがスペインを継承したとしても、ヨーロッパのパワーバランスが崩れてしまうのです。
スペインの領土を分割する試み成らず
1698年~1700年、フランスのルイ14世( Louis XIV of France )とイングランドのウィリアム3世( William III of England )がスペイン王国の領土を分割することを試みました。
フランスとオーストリアとバイエルンで分割する試み、ジョセフの死で成らず
バイエルン選帝侯の息子ジョセフ・フェルディナンド( Joseph Ferdinand of Bavaria )がスペイン本国とスペイン領ネーデルラントと植民地を継ぎ、イタリアにある従属国は、フランスとオーストリアで分割するとする条約が最初に結ばれました(1698)。ところがジョセフ・フェルディナンドが翌年に死去します。
ハプスブルグ家が欲張りすぎて、決裂
二番目の条約は、スペイン本国とスペイン領ネーデルラントをハプスブルク家のカール( Charles )が継承するとするものです。カールは神聖ローマ皇帝レオポルド1世( Leopold I, Holy Roman Emperor )の息子です。そしてナポリとシチリア、その他イタリアにあるスペイン領をフランスが継承するとしました。しかしレオポルド1世はこれに同意せず、スペインの領土を分割せずにまるごと息子カールが継承することを主張しました。スペインの公爵たちもまた領土の分割には一貫して反対でしたから、やはり不服でした。
カルロス2世の遺言と戦争のはじまり
領土は分割せずにブルボン家アンジュー公フィリップへ
スペイン国王カルロス2世は、領土を分割せずに保有する力があるのはブルボン家だけだと納得することにし、1700年の秋にアンジュー公フィリップ( Philip V of Spain )に遺言状を書きました。フィリップはルイ14世の孫にあたります。
フランスのルイ14世がフィリップの継承権を盾にとって侵攻
-英蘭墺が対仏同盟で対抗
同年11月1日、スペイン国王カルロス2世が崩御しました。ルイ14世は孫フィリップがスペイン国王フェリーペ5世であるとことを理由に、スペイン領ネーデルラントに侵攻しました。これをうけて、反フランス同盟が結ばれます(1701年9月)。同盟国はイングランド、オランダ、そしてハプスブルグ家のレオポルド1世、のちに神聖ローマ帝国の領邦プロシアと領邦ハノーファーその他の領邦国家、さらにポルトガルが加わります。フランス側についたのは、神聖ローマ帝国の領邦バイエルンと司教領ケルン( Cologne )、イタリアのマントヴァ公およびサボイ公です(サボイ公は1703年に同盟側に寝返ります)。
イングランド君主はウィリアム3世からアン女王へ
-マールバラ公爵の活躍
ルイ14世の反対勢力として有力だったイングランドのウィリアム3世は、1702年に亡くなります。しかし後を継いだアン女王( Anne, Queen of Great Britain )とイングランド政府が、戦争を継続しました。マールバラ公ジョン・チャーチル( John Churchill, 1st Duke of Marlborough )がアン女王下の政府をリードし戦場にも赴いて活躍しました。同盟側は、スペイン本国を除いて、フランス軍を排除することに成功しました。1708年にルイ14世が求めた終戦交渉は成らず、戦争は続きます。
ユトレヒト条約で終戦
同盟の崩壊
1711年4月17日、ハプスブルク家のカールがオーストリア・ハプスブルク家の全領土の継承者となりました。もしカールがスペインをも継承したなら、それはカール5世時代の( Charles V, Holy Roman Emperor )のハプスブルク帝国の復活にほかなりません。イギリスとオランダには、カールにスペインの王位まで与えるつもりはありませんので、戦争を続ける気がなくなりました。
マールバラ公爵の失脚
イギリスではマールバラ公爵の敵たちが、マールバラ公を失脚させるのによいタイミングとみて汚職を掘り起こし、アン女王の署名を勝ち取りました。マールバラ公は司令官職を解任されました(1711年12月31日)。
ユトレヒト条約で終戦、実質イギリスのひとり勝ち
同盟の崩壊にともなって、1712年には和平条約へむけた交渉が始まりました。旧同盟国はそれぞれ異なる利害をもっていたので、フランスとの交渉は個別に行われました。
最初の一連の条約はオランダのユトレヒトにて( Peace of Utrecht )1713年4月に締結されました。この条約およびのちの条約( Treaty of Rastatt )は、いずれも先のスペイン国王カルロス2世の遺言を無視することになりました。つまり領土は分割されたのです。
ルイ14世の孫フィリップはスペインの国王として継承権こそ認められましたが、領土という点では、イギリスがおおくの植民地を獲得する結果になりました。ユトレヒト条約は、イギリスが植民地帝国として躍進する重要な起点とみられています。いっぽうでフランスとスペインは結果的に、イギリス躍進の犠牲となったのです。
参考
Britannica
War of the Spanish Succession