バイキングの侵攻(8世紀末~)
群雄割拠がつづくアイルランド
アイルランドへのバイキング(Viking)の侵攻は795年にはじまりました。航海術に長けた人々がノルウェー(Norway)からやってきて、小規模な攻撃を頻繁におこないました。この頃のアイルランドはキリスト教文化が栄えていましたがバイキングの襲撃によって中断され、およそ2世紀にわたるバイキング時代へと突入しました。
バイキングは840年代からアイルランドの沿岸で越冬をはじめます。バイキングの船「ロングシップ(longships)※」の技術は優れており、浅瀬でも速いスピードで移動することができました。バイキングの襲撃は川をさかのぼった内陸部までおよびました。
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抜粋文:795年、ちいさなバイキング集団がアイルランドの沿岸に位置する修道院への襲撃をはじめました。彼らは840年からロングフォア(longphorts)と呼ばれる要塞.....
バイキングが築いた町々の発展
ダブリン(Dublin / Dublin)にバイキングの要塞が築かれたのは852年です。ダブリンは主に奴隷貿易の中心港となりました。10世紀に市のまわりに土手が築かれ、11世紀にその外周にさらに新たな土手が築かれました。
20世紀後半、ダブリンのフィッシャンブル・ストリート(Fishamble Street)から、バイキング時代の一連の防衛設備が発掘されました。
バイキングはダブリンのほかにも町を築き、アイルランドそして西ヨーロッパの経済に影響をあたえるようになります。銀を基準とした経済をアイルランドにもたらしたと云われ、また997年から貨幣の鋳造も始めました。
バイキングは強力でしたが、アイルランド全域を支配するには至りませんでした。アイルランドには諸王国が割拠しており、これらの王たちと同盟したり敵対したりしました。
アイルランドの覇権拡大(11世紀)
ブライアン・ボルのアイルランド統一
1014年、クロンターフの戦い(Battle of Clontarf)でアイルランド上王のブライアン・ボル(Brian Boru)がバイキングを打ち破りました。バイキングの勢力圏は縮小しましたが、それでもバイキングが築いた町々は発展しつづけ、交易によってアイルランド経済の重要な部分を担いました。
ブライアン・ボルは、事実上アイルランドを統一したとも言えるでしょう。「上王(High King)」の権限を拡大し、国全体への影響力を増して内政を司るようになりました。
アイルランドの経済は国際交易が浸透するにつれて成長し、バイキングが築いた町々も成長を続けてアイルランドの交易と金融の中心となりました。(これらの町々は現在でも金融の中心として残っています。)
ディアルマド治世下でアイルランドの覇権が拡大
アイルランドにおけるバイキングの覇権が崩壊したあとも、バイキングはダブリン王国(Kingdom of Dublin)の支配は続けていました。しかし1052年、レンスター王国(Kingdom of Leinster)のディアルマド・マク・マール・ナ・ムボ(Diarmuit mac Maél na mBó / d. 1072)がダブリンを掌握したときから、状況は変わります。このときからアイルランド人は、ノルウェー王の支配下にあったスコットランド沖の”島々”(Kingdom of the Isles)にまで近づけるようになりました。
アイルランド上王ムルタッハ と ノルウェー王マグナス
つづく数十年、アイリッシュ海(Irish Sea / Irish Sea)におけるアイルランドの影響はおおきくなります。とくに上王ムルタッハ(Muircherteach Ua Briain / r. c.1075-1086)は外政に高い関心を持ちました。
ムルタッハ王がスコットランド沖の”島々(Isles)”まで覇権を拡大したので、ノルウェー王マグナス・ベアフット(Magnus Barefoot)はムルタッハ勢に戦いを挑みました。ノルウェー王は、1098年および1102年に北部をノルウェーの支配下に取り戻します。マグナスとムルタッハの対立は緊迫した状態になりました。
ところが両王は、互いの子供を結婚させることによって同盟を結びました。この同盟国はともにアルスター(Ulster)に攻め入ります。しかし1103年にマグナスが殺害されました。マグナスが殺害された状況がやや不自然なため、ムルタッハが仕組んだ可能性もあると云われています。
ムルタッハは、スコットランドやイングランド、ウェールズにも政治的に関与しました。
ヨーロッパ史の表舞台へ(12世紀前半)
トイルデルバフ治世下でのアイルランドの近代化
コノート王国(Connacht)の王トイルデルバフ(Toirdelbach)はムルタッハを倒し、1118年にミュンスター王国(Kingdom of Munster)を分割しました。上王となったトイルデルバフのもとでアイルランドは近代化しヨーロッパ史の表舞台に出るようになります。
トイルデルバフはフランス、スペイン、イングランドの支配者や権力者と政治的および商業的なつながりがあり、アイルランドの存在感を示すとともに交易の発展に貢献しました。
トイルデバフは軍事司令官としても優れており、ゴールウェイ(Dún Gaillimhe / Galway)に海軍基地を築き海軍を編成し、城塞を建てて防衛力を向上させました。城の周囲に生じた集落は成長し、こんにちのゴールウェイ市(city of Galway)へとつながっています。
トイルデバフの息子のひとりルアイドリ(Ruadhrí)は、おそらくは対立者のないはじめての上王だっただろうと考えられています。しかしながら、ノルマン人によるアイランド侵攻によって退位させられてしまいます。
ヘンリー2世のアイルランド侵攻
1171年、イングランド国王のヘンリー2世が、大きな艦隊とともにアイルランドのウォーターフォード(Waterford / Waterford)に上陸しました。ヘンリー2世は、ローマ教皇ハドリアヌス4世(Adrian IV)の大勅書(Laudabiliter)によって”アイルランドに侵攻する権限”を持っていました。
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参考
History of Ireland
王:Dermot Mac Murrough, King of Leinster Muirchertach o Mac Lochlainn, king of Tír Eoghain