[詳しく]5世紀のイギリス
       

ローマ帝国は4世紀末に東西に分裂しました。西ローマ帝国は、外敵の侵入を防ぎきれず疲弊してゆきました。5世紀初頭、イギリス(ブリタンニア)に派遣されていた軍がひと仕事終えて撤退すると、ブリタンニアは弱体化しました。

5世紀のイギリスの主な出来事は次のとおりです。

  • ローマからの派遣軍がブリテン島を去る
  • ブリタンニアの将軍コンスタンティヌスが皇帝を僭称し、軍をひきつれて大陸に渡るも敗戦
  • ブリトン人がローマへの忠誠を放棄
  • ローマ皇帝がブリタンニアを放棄
  • アングロサクソン人の侵入がつづく
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400年頃の夏:ブリテンに派遣されていたローマ軍が撤退

ブリタンニアの防衛が弱体化

ピクト人( Picts )やスコット( Scots )やアングロサクソン( Anglo Saxon )の侵攻からブリタンニアを守るために派遣されていたローマ軍は、その任務に成功すると、今度はイタリアを西ゴート族( Alaric the Goth )の侵攻から守るために撤退してゆきました。その結果、ブリタンニアの守備は外敵の侵入に対してとても弱いものになりました。

外敵に侵入される前のライン川国境線
出典 Wikimedia Commons

407年頃の冬:ブリテン島の駐留軍がコンスタンティン3世を皇帝として擁立

皇帝を僭称し大陸に渡ったコンスタンティン3世、破れる

この頃のローマ帝国の国境防衛線は外敵によって頻繁に破られており、軍事が危機的状況にありました。ライン川沿いがひとつの国境線でしたが、ここが破られたため、テオドシウス1世( Theodosius I )はイタリアを守るために軍を引き上げました。

外部リンクCrossing of the Rhine
抜粋文:The crossing of the Rhine River by a mixed group of barbarians which included Vandals, Alans and Suebi is traditionally considered to have occurred on the last day of the year 406 (December 31, 406).

ブリテン島にいたローマ軍は反乱を起こし、将軍コンスタンティヌス( Constantine III )を皇帝として擁立しました。コンスタンティヌス3世は大陸に渡りましたが、テオドシウス1世を支持する軍に破れました。

皇帝を僭称したコンスタンティヌス3世のコイン
出典 Wikimedia Commons

409年頃の夏:ブリトン人がローマへの忠誠を放棄

ブリトン人がローマ政府を見限り自治を開始

皇帝を僭称したコンスタンティヌス3世( Constantine III )が軍を率いて大陸へ渡りブリテンからいなくなってしまったので、ブリタンニアに残された人々はおそらく、サクソン人の侵入に対し自らの力だけで戦うことになったでしょう。1年後の409年、ローマの政府機関を追い出し、自治にのりだしました。

410年頃の夏:ブリテン人がローマ皇帝に助けを求める

皇帝ホノリウスは支援の要請を却下

ブリタンニアに遺っていたローマ兵は、410年までにブリタンニアを去り、帝国各地の国境線の防衛に向かいました。このためブリタンニアの軍事危機は続き、アングロサクソン、ピクト、スコットらの侵入に耐えかねたブリテン人は、皇帝ホノリウス( Honorius )に支援を要請しました。しかし皇帝からの返答は「自らの問題は自らで解決してほしい」という旨でした。

410年は、ブリテン島のローマ支配終焉の年として認識されています。

皇帝ホノリウスの象牙彫刻
出典 Wikimedia Commons

430年:ニニアンがギャロウェイで宣教

スコットランドで最初の宣教師ニニアン

15世紀に描かれたニニアン
出典 Wikimedia Commons

ニニアン( Ninian )は、ハドリアヌスの壁( Hadrian’s Wall )に駐屯していたローマ兵の息子だろうと考えられています。ローマとガリアで学んだあと、ギャロウェイ( Galloway )へ行き、キリスト教の福音を伝えました。430年頃までに、彼の弟子たちは、スコットランドで最初のキリスト教教会をウィットホーン( Whithorn )に建てました。

431年:パラディウスがアイルランドで宣教

教皇セレスティン1世がアイルランドに派遣した司教

教皇セレスティン1世( Pope Celestine I )が司教パラディウス( Palladius )をアイルランドに送ったことが年代記に記されており、これがアイルランドのキリスト教に関して遺っている最初の文献史料だそうです。アイルランドで宣教につとめた最初の人物として、パラディウスとパトリックの2人が記録に残っていますが、パトリックのほうが後世まで広く知られることになりました。

スコットランドにある聖パラディウス教会(アイルランドを去ったあとにスコットランドへ渡った説)
出典 Wikimedia Commons

432年:アイルランドで聖パトリックが宣教

アイルランドに拉致された司祭の息子

ローマ支配下にあったブリテンに侵攻したアイルランドの民族が、少年パトリック( Patrick )を拉致し奴隷としてアイルランドに連れ帰っていました。パトリックはキリスト教の司祭の息子/孫です。数年後、パトリックは脱出に成功してブリテン島にもどりますが、最終的にアイルランドに渡りここで宣教活動を行いました。アイルランドに渡った年について、のちの年代記には「432年」と記されています。「パトリックの宣教活動がパラディウスより先であるはずがない」と年代記の編纂者が考えたためだろう、と推測されています。

関連記事St Patrick: Irish Legend
抜粋文:2000年公開のテレビドラマです。聖パトリック(Saint Patrick)の生涯を描いています。聖パトリックはウェールズで生まれ、アイルランドにキリスト教を伝えた人物です。

聖パトリックが埋葬された場所に置かれている石
出典 Wikimedia Commons

449年:(誤)アングロサクソン人の侵入の年

かつてアングロサクソン人の侵入の年と信じられていた年号

449年がアングロサクソン人( Anglo-Saxon )の侵入の年であると信じられてきました。731年にベーダ( Venerable Bede )によって編纂された「イングランド教会史( Ecclesiastical History of the English )」にそのように記されていたからです。しかし現在、この年号は確実に誤りであるとされています。ほかの史料から推測できるように今では、アングロサクソン人の侵入と定着はもっと早くから始まっており、かつ数十年先まで続いたと考えられています。


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参考文献

Sub-Roman Britain
last edited on 15 January 2023, at 16:58 (UTC)
Saint Patrick
last edited on 10 February 2023, at 04:04 (UTC)
Hengist and Horsa
last edited on 1 December 2022, at 17:37 (UTC)
Roman Britain
BBC © 2014
Vikings and Anglo-Saxons
BBC © 2014
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