イングランド国王エドワード1世(1239-1307 / r. 1272 – 1307)

イングランド国王エドワード1世(1239-1307 / r. 1272 – 1307)

ヘンリー3世が亡くなると、その長男エドワードがイングランド王位を継承しました。エドワード1世は十字軍遠征の帰路の道中で王位継承の知らせを受けました。

エドワードはその治世の大部分を、行政の建て直しと法の整備に費やしました。またウェールズを征服したことで有名です。スコットランドにも侵攻しますが、決着のつかないまま没しました。

エドワード1世の最初の妃はスペインのカスティーリャ王女エレノア(ブルゴーニュ家/ボルゴーニャ家)です。政略結婚には珍しく仲の良い夫婦でした。先に亡くなったエレノアを悼んで、エドワードはイングランドに12の十字架(碑)を立てました。

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Edward I of England
エドワード1世

エドワード1世
出典 Wikimedia Commons
誕生1239年6月17もしくは18日
Palace of Westminster, London, England
死没1307年7月7日(68歳)
Burgh by Sands, Cumberland, England
埋葬地:Westminster Abbey, London, England
身分イングランド国王:
1272年11月20日 – 1307年7月7日
ヘンリー3世(Henry III of England
エレノア・オブ・プロヴァンス(Eleanor of Provence
Name

できごと(年表)

1274年
ウェストミュンスター寺院でエドワード1世が戴冠
1283年
エドワード1世、独立ウェールズ最後の支配者 Llewellyn ap Gruffydd を倒す
1284年
ルドラン法令によってウェールズの独立が終了
1290年
ユダヤ人追放令の発布
エドワード1世の妃エレナがノッティンガムシャーで死去
1292年
エドワード1世、John Balliol をスコットランド国王として選出
1295年
模範議会の招集
1299年
エドワード1世、フランスのマーガレットと再婚
1301年
エドワード1世、息子エドワードをウェールズ公に据える
1305年
ウィリアム・ウォレスがロンドンで処刑される
1306年
ロバート・ブルースがスコットランド国王として即位
1307年
エドワード1世、スコットランドへの再侵攻を試みるが道中で崩御

ウェールズの征服

リウェリン・アプ・グリフィズが忠誠を拒否したので…

ウェールズの支配者リウェリン・アプ・グリフィズ(Llywelyn ap Gruffyd)は、ヘンリー3世の治世に起きた第2次バロン戦争(Second Barons’ War)の間に力を蓄えていました。

1267年のモントゴメリー条約後のウェールズ
赤:イングランド
緑:リウェリンの領土
紫:リウェリンが征服
水色:リウェリンの臣下の封土
橙:イングランド諸侯の封土
黄:イングランド国王の領土
出典 Wikimedia Commons

リウェリンは、1274年に行われたイングランド国王エドワード1世の戴冠式に参列しませんでした。「ウェールズはもはやイングランドの封建的臣下ではない」ことをほのめかしたのです。

これに怒ったエドワード1世は、1276年にウェールズに対する戦争を宣言し、翌1277年に侵攻を開始しました。

力の差はあきらかでした。大きな戦争になる前にウェールズ大公リウェリンは降参し、アベルコンウィ条約(Treaty of Aberconwy)が結ばれました。

リウェリンの領土はグウィネズのみに縮小されたものの、ウェールズ大公の称号(title of Prince of Wales)を維持することは許されました。

1277年のアベルコンウィ条約後のウェールズ
緑:リウェリンの領土
水色:ダフィッドの領土
赤:イングランド王に割譲されたエリア
橙:イングランド諸侯の封土
出典 Wikimedia Commons

ウェールズ人の反乱、「鎮圧」を超えて「征服」

1282年に戦争が再勃発します。しかしこの戦いは、ウェールズ人にとっては以前とは背景がことなりました。イングランドの法がウェールズに課されたことに対する反発でした。

反乱を開始したのはダフィッド(Dafydd ap Gruffydd)で、まもなくリウェリンとほかのウェールズ人有力者もこれに加わりました。

エドワード1世はこの反乱の鎮圧にとりかかります。しかしエスカレートして、最終的にウェールズを征服することになりました。

1283年6月にダフィッドは捕らえられ、裏切り者として秋に処刑されました。

首をくくられ、はらわた取られて四つ裂きにされて

ダフィッドは馬で市中をひきずりまわされ、吊るされて半死半生にされたのち、四つ裂きにされました。裂かれた肢体は、イングランドじゅうに送られました。この恐ろしい処刑は、「‘hanged, drawn and quartered’(首をくくられ、はらわた取られて四つ裂きにされて)」として知られるようになりました。

プリンス・オブ・ウェールズ

1301年、エドワード1世は息子のエドワードをウェールズ大公に据えました。これより以降、現在にいたるまで「ウェールズ大公」の称号は、イングランド(現在は ザ・ユナイテッドキングダム / 英国)の国王の長男に与えられる称号として定着しています。

カーナーボン城
以後200年にわたって北ウェールズにおけるイングランド支配の中心地となる
出典 Wikimedia Commons

エドワード1世がウェールズに建てた城

エドワード1世はウェールズに城を建て、イングランド人を移住させました。ビューマリス城(Beaumaris Castle)、ハーレック城(Harlech Castle)、そしてカーナーボン城(Caernarfon Castle)などはエドワード1世によって建てられた城です。

  関連リンク   【ウェールズの城】エドワード1世が建てた4つの城

ウェールズ征服まとめ年表

1282
エドワード1世、北ウェールズ侵攻
1283
エドワード1世、サウェリン・アプ・グリフィズを倒す
1284
ルドラン法令によってウェールズの独立が終了
1301
エドワード1世、息子エドワードをウェールズ大公の地位に据える

スコットランド侵攻

スコットランド王位継承問題の見守り役として招かれたエドワード1世

1290年の秋、スコットランドではマーガレット王女が病死したため、王位継承問題が引き起こされました。「Great Cause 」として知られる王位継承問題です。

エドワード1世はこの継承争いの見守り役として招かれました。仲裁は求められていませんでした。

スコットランド王家の家系図
出典 Wikimedia Commons

エドワード1世、自らを「大君主」と主張

スコットランド王位は、ジョン・バリオール(John Balliol)とロバート・ブルース(Robert de Brus)の間で争われました。エドワード1世はこのとき選出される次期国王に、イングランド国王を「大君主」として認め忠誠を誓うことを求めました。大君主とは、ある王国の君主に勝る権力を持つ他国の君主です。

ジョン・バリオールが、次期国王に選出されました。

スコットランド王ジョン・バリオール
(16世紀画:王冠が壊れ盾に紋章がない)
出典 Wikimedia Commons

国王ジョン・バリオール、忠誠を拒否してフランスと同盟

しかし国王ジョン・バリオールをはじめスコットランドの人びとは、エドワード1世を大君主として受け入れたくありませんでした。そこでスコットランドは、イングランドを裏切り、フランスと同盟してエドワード1世に反旗をひるがえしました。

エドワード1世の「模範議会」

1295年、エドワード1世は会合を催しました。フランス、スコットランド、ウェールズへの遠征資金を集めるため、増税するにあたって、諸侯らの同意を得たい考えでした。

この会合には、聖職者と諸侯、そして複数のカウンティから代表が招集されました。それぞれのカウンティから、2人の騎士と2人のバラ代表が送られました。都市からは、2人の市民代表が送られました。

この会合は、のちの「議会」のモデルとなりました。そのため「模範議会(Model Parliament)」と呼ばれます。

エドワード1世、スコットランドに侵攻

スコットランドの態度に怒ったエドワード1世は、1296年にスコットランドに侵攻し、イングランド政府を設置しました。ジョン・バリオールは廃位させられロンドン塔に幽閉されました。

エドワード1世のあだ名「Hammer of the Scots」はこの頃つけられました。

ウィリアム・ウォレスの台頭

しかしエドワード1世の勝利は、つかの間でした。スコットランドの征服を維持するのにじゅうぶんな資金がなかったのです。

翌1297年に新たな抵抗勢力が台頭します。この勢力を率いていたのが、アンドリュー・モレー(Andrew de Moray)そして、ウィリアム・ウォレス(William Wallace)です。

ウィリアム・ウォレスの処刑

エドワード1世は、反乱を率いたリーダーとスコットランドの上流家系を厳しく、そして残忍に、罰しました。ウィリアム・ウォレスは処刑されました。

この争いは、スコットランド対イングランドという国家戦争ではなく、イングランド国王に対する「民の反乱」として扱われました。

エドワード1世の死

1307年、エドワード1世は、スコットランドの再征服に向かう道中で赤痢のために亡くなります。スコットランドへの侵攻問題は決着のつかないまま、息子エドワード2世へと継がれました。

スコットランド侵攻まとめ年表

1292
イングランド王エドワード1世、ジョン・バリオールをスコットランド新王に選出
1295
イングランドで模範議会の招集
1295
ジョン・バリオールがエドワード1世への忠誠を破りフランス国王フィリップ4世と同盟
1296
エドワード1世、スコットランドに侵攻しバリオールを廃位し、イングランド人による政府を設置
エドワード1世、スクーン石をウェストミュンスター寺院に移動
1297
スコットランド人の蜂起:ウィリアム・ウォレスが「スターリング・ブリッジの戦い」でイングランド軍に勝利
1298
エドワード1世、スコットランドに再侵攻:「フォルカークの戦い」でウィリアム・ウォレスを破る
1305
ロンドンにてウィリアム・ウォレスの処刑
1306
ロバート・ブルースがスコットランド国王に即位
1307
エドワード1世、スコットランドに再侵攻の道中で崩御
1314年「バンノックバーンの戦い」に勝利するロバート・ブルース(20世紀画)
出典 Wikimedia Commons

ユダヤ人の追放

エドワード1世の治世にユダヤ人の追放が行われました。

金貸し業で疎まれていたユダヤ人

キリスト教徒は金を貸し付けて金利を得る行為を禁じられていたので、このような金貸しビジネスはユダヤ人だけが行うことができました。イングランド人のあいだで反ユダヤ人運動が大きくなります。

中世のイングランドにおけるユダヤ人のコミュニティを示した地図
出典 Wikimedia Commons

ユダヤ人の高利貸しを禁止する法令

1275年にエドワード1世は「ユダヤ人法令(Statute_of_the_Jewry)」を発しました。ユダヤ人の高利貸しを禁止する法令です。これによって失業するユダヤ人には、他の職業を探すために、15年間の猶予が与えられました。

ユダヤ人の追放

しかしイングランド人はユダヤ人に土地を売らなかったり、職人の弟子として採らないなど、偏見をあらわにしました。イングランド人によるユダヤ人への憎悪は膨らむいっぽうでした。

1290年に「ユダヤ人追放令(Edict_of_Expulsion)」が発布されると、すみやかに実行されました。

エレノア・クロス

妃エレノアの死を悼んでエドワード1世が建てた12の碑

エドワード1世と妃エレノア(Eleanor of Castile)は仲の良い夫婦でした。エレノアは結婚してから亡くなるまでの36年間、エドワード1世の多くの遠征や旅に付き添いました。

1290年の巡幸中に、妃エレノアは亡くなりました。場所はノッティンガムシャーのハービー(Harby, Nottinghamshire)でした。

エドワード1世はとても悲しみ、妃エレノアの遺体をウェストミュンスター寺院(Westminster Abbey)まで運ぶ道中に、12の碑を建てました。この中でもっとも大きく、もっとも装飾されているのは、チャーリングクロス(Charing Cross)です。

Waltham Cross
12のエレノア・クロスのなかのひとつウォルサムの十字架(碑)
出典 Wikimedia Commons

  関連リンク   エレノア・クロス:12の十字架(碑)


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参考
Edward_I_of_England
Conquest_of_Wales_by_Edward_I
History_of_the_Jews_in_England

フランス国王フィリップ4世に忠誠を誓う、アキテーヌ公としてのエドワード
出典 Wikimedia Commons
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