エドワード3世(Edward of Windsor)
       

父王エドワード2世の廃位にともなって、エドワード3世は14歳で即位することになりました。母イザベラとその愛人ロジャー・モーティマが摂政として実権をにぎりますが、エドワード3世は17歳でクーデター起こして親政を開始します。

フランスの領有地をめぐってフランス国王と争いになり、1337年に始まった戦争は、後世「百年戦争」の第一部として知られることになります。116年後、イングランド(プランタジネット家)はフランスの領有地を完全に失うことになるのですが、エドワード3世の治世の中期においてはおおいに優勢を誇りました。

治世の特徴として、議会の二院制のはじまりや、黒死病が流行したこと、公爵位を制定したこと、優秀な長男である黒太子が先立ったことなどが挙げられます。

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エドワード3世(Edward of Windsor

エドワード3世
出典 Wikimedia Commons
治世1327年1月25日-1377年6月21日(50年148日)
継承権エドワード2世の長男
生没1312年11月13日:場所 Windsor Castle
1377年6月21日(64歳):場所 Sheen Palace
家系プランタジネット家(Plantagenet
父母Edward IIIsabella of France
結婚フィリッパ(Philippa of Hainault)(1328年)
子供エドワード黒太子(Edward the Black Prince
Isabella, Countess of Bedford
Joan
ライオネル(Lionel, Duke of Clarence
ジョン(John of Gaunt, Duke of Lancaster
エドマンド(Edmund, Duke of York
Mary, Duchess of Brittany
Margaret, Countess of Pembroke
トマス(Thomas, Duke of Gloucester
埋葬Westminster Abbey
イングランド国王エドワード3世

年表

1327エドワード2世の廃位にともなってエドワード3世が即位
1328エドワード3世、エノー伯の娘フィリッパ( Phillipa of Hanault )と結婚
1329エドワード3世、スコットランドを独立国として認める
1330エドワード3世、ロジャー・モーティマを逮捕し処刑し、母イザベラは幽閉
親政を開始する
1332議会が二院制(庶民院と貴族院)になる
フランス語に代わって英語が宮廷の言葉になる
1333ハリダンヒルの戦い( Halidon Hill )でスコットランドを破る
1337フランス国王フィリップ6世がアキテーヌ公爵領を没収したため、エドワード3世はフランス国王フィリップ4世の孫であることを理由にフランス王位を請求し、英仏百年戦争がはじまる
1344エドワード3世、ガーター騎士団( Order of the Garter )を創設
1346スコットランド国王ディビッドがイングランドに侵攻し、ネヴィルズ・クロスの戦い( Neville’s Cross )で敗戦:捕らえられる
1346クレシーの戦い( Battle of Crecy )でフランスが敗戦
1347エドワード3世、カレー包囲戦( siege of Calais )に勝利
1348
-1350
黒死病(ペスト / The Black Death )の流行
イングランドの人口3分の1が亡くなり、農民や兵士の不足を招く
1356ポワティエの戦いで黒太子エドワードがフランス軍を破り、フランス国王ジャン2世を捕虜とする
南西フランスでプランタジネット家の優勢
1357スコットランド王ディビッド2世が解放され帰国
1360フランス国王ジャン2世が、息子アンジュー伯ルイを人質としたうえで身代金の支払いを約束して釈放される
1364アンジュー伯ルイが脱走:フランス国王ジャン、身代金を支払えず自ら捕らわれの身に戻り、そのまま生涯を終える
1367スペインのカスティーリャ国で内戦:イングランドとフランスがそれぞれを支持し、ここでも対立
1369フランス国王がアキテーヌを取り戻したため、対仏戦が再開
1370エドワード3世と黒太子、リモージュ包囲戦( Limoges )で300人の民間人を虐殺(?)
1372フランス軍がポワトゥーとブルターニュを奪回
ラ・ロシェルの戦い( La Rochelle )でカスティーリャ軍/フランス国王軍が勝利
1373エドワード3世の息子ジョン・オブ・ゴーント( John of Gaunt )がフランスに侵攻し、ブルゴーニュ国境まで進軍
1373ジョン・オブ・ゴーントがイングランドに帰国し執政:エドワード3世と黒太子が病
1375ブルージュ条約( Treaty of Bruges ):ボルドーとカレーのみが、フランスにおけるプランタジネット家の領土として残る
1376善良議会:エドワード3世の愛妾アリス・ペラーズが裁かれる
1376黒太子エドワードの死
1377エドワード3世、脳卒中のため崩御
イングランド国王エドワード3世の治世

おもなできごと

エドワード3世の即位と親政の開始

父王エドワード2世が、母イザベラ( Isabella of France )とその愛人ロジャー・モーティマ( Roger Mortimer )によって廃位させられたため、エドワード3世は14歳で即位することになりました。

エドワード2世は若干17歳で、政権をにぎるモーティマにクーデターを起こして、親政を開始します。モーティマは処刑され、母イザベラは幽閉されて余生を送りました。

エドワード3世の治世は50年におよび、中世イングランド史におて2番目に長い期間となりました。

二院制の始まり

議会の二院制は、エドワード3世の時代にはじまりました。

そのむかし、議会は「諸侯大会議」と呼ばれ、出席者は聖職諸侯と世俗諸侯のみでした。しかしやがて「騎士と市民代表」も招聘されるようになります。

さて「騎士と市民代表」と「諸侯」とでは、立場が違うので視野が異なります。だんだんと、騎士や市民は請願を出す側、諸侯は採決を与える側へと別れはじめました。これらがやがて「庶民院」「貴族院」と呼ばれる二院として発展してゆくのです。

二院制がはじまるまで

ジョン王の時代(1199-1216)
・諸侯の反乱⇒マグナ・カルタ:王権の制限と諸侯の権利の保障
・諸侯大会議の開催要請を受ける

ヘンリー3世の時代(1216-1272)
・諸侯大会議( Magnum Concilium )が頻繁に行われる
・諸侯大会議が「議会」と呼ばれるようになる

聖職諸侯(大司教・司教・修道院長)と世俗諸侯(伯・諸侯)が出席。各カウンティから2名の騎士と各バラから2名の市民代表が招聘されることもあった

エドワード1世の時代(1272-1307)
・1295年の議会が「模範議会( Model Parliament )」と呼ばれる

従来の聖職諸侯と世俗諸侯に加えて、各カウンティから2名の騎士と各バラから2名の市民代表を招聘することが定着した

エドワード3世の時代(1327-1377)
・二院制のはじまり

「諸侯の集まり」と「騎士・市民の集まり」が二院制の起源。「貴族院」「庶民院」という名称は16世紀から用いられる。

公爵位の制定

エドワード3世は「公爵位(Duke)」を制定し、王族に叙爵しました。

  • コーンウォール公爵(Duke of Cornwall
    • 長男エドワード黒太子(1337)
  • ランカスター公爵(Duke of Lancaster
    • 二従弟ヘンリー・オブ・グロスモント(1351)
    • 三男ジョン・オブ・ゴーント(1362)
  • クラレンス公爵(Duke of Clarence
    • 次男ライオネル(1362)

イングランドの爵位

14世紀半ばまで、イングランドの貴族は「伯(Earl)」と「諸侯(Baron)」というおおまかな区分しかありませんでした。公爵位が「伯」に勝る位として制定されるまで、「伯(Earl)」は大陸(フランスなど)の「公爵(Duke)」に相当するものとみなされていました。

なお、「侯爵(Marquess)」と「子爵(Viscount)」の制定はもう少し先のことです。

  関連リンク   貴族(ピアレッジ / Peerage)の序列と成り立ち

百年戦争はじまる

エドワード3世は、対スコットランド戦に勝利したあと、1337年にフランスの王位継承を請求しました。のちに「百年戦争( Hundred Years’ War」として知られる戦争のはじまりです。

※百年戦争…プランタジネット家 VS ヴァロワ家 によるフランス王位継承戦争にはじまり、周辺諸国・諸公国を巻き込み、また他所の継承戦争に首を突っ込み、停戦をはさみながら116年続いた英仏戦争の総称。最終的にプランタジネット家は大陸に領有する土地をすっかり失う結果になる。この一連の戦争を経て「イングランド王家にイングランド人たるアイデンティティが確立された」と評される。百年戦争亜は一般的に3部に分けられる:Edwardian War (1337–1360)、 Caroline War (1369–1389)、Lancastrian War (1415–1453)。このほか停戦中の代理戦争としてブルターニュ継承戦争(War of the Breton Succession)も関りが深い。

イングランド王が、なぜフランス王位を請求?

先王エドワード2世は、フランス国王フィリップ4世(カペー朝)の娘イザベラを妃にむかえ、ここにエドワード3世が生まれました。エドワード3世は母を通じてフランス王家の血をひいていたのです。

1328年、フランス国王フィリップ4世の末息子シャルル4世が、世継ぎのいないまま亡くなってしまいました。ここで王位継承問題がもちあがります。王位は、シャルル4世の従兄弟にあたるヴァロア家のフィリップ(6世)に継がれました。ヴァロア朝のはじまりです。

じつは当初、エドワード3世には王位を請求するつもりはありませんでした。ところがフィリップ6世が、フランスにあるエドワードの領有地を没収したので、だまっているわけにはいかなくなったのです。そこで自身のフランス王位継承権を主張することで味方を募り、王位継承戦争にのりだしました。

フランスにプランタジネット家の領有地があることは、プランタジネット家の収入につながるだけでなく、貿易が盛んに行われることで、イングランド経済にも好影響をもたらしていました。

当初はいくらか難航したものの、総じて第一部( Edwardian phase )はイングランド優勢で幕を閉じます。イングランドは、クレシーの戦い( Crécy )およびポワティエの戦い( Poitiers )に勝利し、有利な条約( Treaty of Brétigny )を結ぶことができました。エドワード3世はフランスにおける領土を広げ、その一部はフランスの宗主権から脱することもできました。これと引き換えに、エドワード3世はフランス王位の請求を取り下げました。

しかし残念ながら、これより後の治世は、国際的な敗北と国内問題に見舞われ、体調も優れなくなります。対仏戦で活躍し有望視された長男エドワード(黒太子 / Black Prince )が先立ち、エドワード3世自身もその翌年に亡くなるのです。

黒死病(ペスト)の流行

1348年、黒死病がイングランドでも猛威をふるいはじめました。わきの下や股間に黒い腫瘍が見られる病気で、数日以内に死にいたる感染症です(黒死病について詳しくは:厚生労働省 名古屋検疫所)。

イングランドでは人口の20%~33%が失われたため、各地が荒廃し、経済危機がおとずれ、市民を不安におとしいれました。同じ理由による大不況は、フランスにも起こっており、イングランドのほうが少し早い回復をみたとされています。

黒死病がもたらした社会的影響

黒死病によって多くの農民が命を落とし、農民が不足する事態を招きました。多くの土地保有者は、労働者を必要とする従来の農業から、牧羊に転換し土地を囲い始めました。牧羊は農業労働者を必要としないため、土地保有者(領主)は不自由農民に「自由を買い取る」ことを許可して、封建義務から解放しました。不自由農民が減り、自由人が増えたのです。自由人となった人々のおおくは、町に集まるようになりました。

※不自由農民…住む場所と引き換えに、領主のために農業に従事することが定められた人々。行動範囲も限られ、外界を知らない状態で一生を終えることがほとんどだった。

エドワード3世の愛人が裁かれた「善良議会」

エドワード3世が信頼し、イングランドの人びとからの人気も高かった妃フィリッパ( Philippa of Hainault )が、1369年に亡くなりました。するとフィリッパの侍女だったアリス・ペラーズ( Alice Perrers / 当時21歳)が、エドワード3世(当時58歳)の愛妾として目立ちはじめます。

国王の寵愛を利用して富と地位を築いたペラーズの振る舞いは、同時代の人びとから妬みの対象ともなり「私欲を満たす強欲な野心家で、冷淡な日和見主義者」と評されました。

1376年、国王は長引く戦争の費用をまかなうための「関税徴収」を諮るために議会を招集しました。これと引き換えに議会は、政治に悪影響を及ぼしている人物の「弾劾( impeachment )」を要求します。

※弾劾( impeachment )…身分保障された官職にある者を、義務違反や非行などの事由で、議会の訴追によって罷免し、処罰する手続き。-Wikipedia

この「弾劾」によって最初に裁かれたのはウィリアム・ラティマー( 4th Baron Latimerですが、続いてペラーズも裁かれ、国王から贈与された領土などが没収されました。

※ウィリアム・ラティマー…宮内府/家政( Royal Households )の主要メンバーで、初代ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントのお気に入りでもあった人物。様々の罪状のなかには、城を敵に売り渡したこと、資金の横領、収賄などがあります。

この議会は人々から「善良議会( Good Parliament )」と呼ばれるようになりました。

地図

プランタジネット家の領地

1330年頃のフランスの地図です。薄青が1214年頃のフランス国王領、濃青が1330年頃までにフランスが広げた王領、ピンク色がプランタジネット家(=イングランド王家)の領地です。


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参考
Kings and Queens of England & Britain
Edward_III_of_England
Edward II and Edward III
King Edward III (1327 – 1377)
A Really Useful Guide to Kings and Queens of England
物語イギリスの歴史(上)

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