ホワイトシップ遭難事件の影響:アンジュー伯 VS ヘンリー1世「娘に持参金としてもたせた領土を返せ」

ホワイトシップ遭難事件の影響:アンジュー伯 VS ヘンリー1世「娘に持参金としてもたせた領土を返せ」
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ホワイトシップの遭難

ヘンリー1世の唯一の嫡男ウィリアムが死去

ヘンリー1世の嫡男だったウィリアムが、1120年11月「ホワイトシップの遭難事件(White Ship)」で亡くなりました。

ホワイトシップの遭難(14世紀の画)
出典 Wikimedia Commons

ウィリアムはヘンリー1世の唯一の嫡男で、王位を継承する予定でした。ウィリアムは結婚していました。ウィリアムに嫁いでいたのは、フランスのアンジュー伯フルクの娘マチルダです。

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アンジュー伯 VS ヘンリー1世

アンジュー伯フルク「娘と持参金を返せ」

ヘンリー1世とアンジュー伯(Fulk, Count of Anjou)の同盟は、互いの子供の結婚の上に成り立っていました。アンジュー伯フルクの娘マチルダ(Matilda of Anjou)は、ヘンリー1世の息子ウィリアムに嫁いでいました。

このため、ウィリアムが死亡したことは両者の関係の崩壊につながりました。アンジュー伯フルクはレバントから戻り、娘のマチルダとその持参金としての領土や要塞の返還を求めました。

※領土と要塞…メーヌ(Maine)の土地と要塞。

1100年頃の北フランス
出典 Wikimedia Commons

ヘンリー1世「嫁は返すが、領土は返さない」

未亡人マチルダはアンジューに帰されましたが、領土と要塞については言い争いになりました。ヘンリー1世は「領土や要塞は、アンジュー伯の所有物となる以前、そもそも自分の所有物であった」と主張し、返還しませんでした。するとアンジュー伯フルクが強硬手段にでます。

アンジュー伯フルク、敵の敵と手を組む作戦

アンジュー伯フルクは、娘のひとりシビラ(Sibylla)をウィリアム・クリト(William Clito)に嫁がせて、問題となっている領土と要塞を持参金として与えました。ウィリアム・クリトは、ヘンリー1世の甥にあたります。ヘンリー1世が打ち破った長兄ロバートの息子でした。ヘンリー1世のライバルであり犬猿の仲です。

事態は戦争に発展しました。

戦争に発展

アモーリ・デ・モンフォール(Amaury III de Montfort)はアンジュー伯フルク側に就き、1123年の反乱を率いました。ノルマンディの何人かの領主(barons)も、ワレラン・ド・ボーモン(Waleran de Beaumont)に率いられてアモーリに加わりました。(ワレランは、ヘンリーのかつての同盟者ロバート・ド・ボーモンの息子でした。)

1124年春、軍事行動が開始されました。

ブールテルードの戦いでヘンリー1世軍が勝利

ブールテルードの戦い(battle of Bourgthéroulde)では、ベルネー城主オド・ボレン(Odo Borleng)が国王軍を率い、国王軍を勝利に導きました。オド・ボレンは、反乱勢が彼らの拠点(Beaumont-le-Roger)を出発したとの情報を得て、ブロトンの森(Brotonne)でこれを待ち伏せたのです。

オド・ボレン生きいる軍と出くわしたワレランは、攻撃をしかけました。しかしオドの射手たちが放った矢が、騎士たちの統制を崩しました。

ブールテルードの戦い
出典 Wikimedia Commons

ワレランは捕獲され、アモーリは逃亡しました。ヘンリー1世は反乱勢の残りを一掃し、反乱勢が押さえていた城を取り返しました。何人かの反乱リーダーは、罰として盲目にされました。死刑があたりまえの当時にしては寛大な処置だったと言われています。

シビラとウィリアム・クリトの婚姻を無効化

アンジュー伯フルクが結んだシビラとウィリアム・クリトの結婚は、教皇カリストゥス2世(Pope Callixtus II)によって無効とされました。ヘンリー1世は、この処置とひきかえに、教皇カリストゥス2世に莫大なお金を払いました。

余談

アンジュー伯フルク、エルサレムの王になる

アンジュー伯フルクは1089年あるいは1092年に生まれ、1109年にアンジュー伯位を継ぎ、1129年に爵位を息子ジョフロワに譲って、1131年からエルサレム王位につきました。

1127年にフルクはエルサレム王ボードゥアン2世から知らせを受けます。ボードゥアン2世には男子の後継ぎがなく、娘のメリザンド(Melisende, Queen of Jerusalem)への王位継承をすでに宣言していました。ボードゥアン2世は娘の王位継承を確かなものにするために、有力な貴族との結婚を望んでいたのです。

アンジュー伯フルクは裕福な十字軍騎士で、軍の指揮官としても経験豊富で、そして1126年に妻を亡くしたところでした。常に戦争の危機にあるエルサレム王国にとって、フルクの戦争の経験はとても貴重であると考えられました。

King_of_Jerusalem#House_of_Anjou


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参考
Henry_I_of_England#Succession_crisis

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ヘンリー1世は娘のマチルダを王位継承者として宣言しましたが、ヘンリー1世がなくなると、甥のスティーブンが王位に就いてしまいます。マチルダはノルマンディからイング.....