イングランド国王ヘンリー2世(1133 – 1189 / r. 1154 – 1189)

イングランド国王ヘンリー2世(1133 –  1189 / r. 1154 – 1189)

ウィリアム征服王のひ孫にあたるヘンリー2世は『カンタベリー大司教トマス・ベケット殺害事件』と『アイルランド征服』で知られています。

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Henry II of England
イングランド国王ヘンリー2世

生誕1133年3月5日、Le Mans, Maine, Kingdom of France
死没1189年7月6日、Chinon CastleChinonTouraineKingdom of France
埋葬地:Fontevraud Abbey, Anjou, France
身分ノルマンディ公爵:1150年-1189年
イングランド国王:1154年12月19日-1189年7月6日
アンジュー伯ジェフリー5世(Geoffrey V, Count of Anjou
マチルダ(Empress Matilda
Henry II of England

おもなできごと

1154年
ヘンリー2世の戴冠(21歳)
1155年
教皇ハドリアヌス4世による勅書(アイルランド教会をローマ教会の支配下におく目的でヘンリー2世にアイルランド侵攻を許可)
1162年
ヘンリー2世がトマス・ベケットをカンタベリー大司教に任命
1164年
ヘンリー2世によるクラレンドン法の導入開始(トマス・ベケットが署名を拒否)
1166年
アイルランドのレンスター国王がヘンリー2世に救援を依頼し、ペンブローク伯が派遣される
1170年
12月29日、ヘンリー2世が意図せずトマスベケットを殺害
1171年
ヘンリー2世によるアイルランド侵攻
1173年
妃エレノアと息子ヘンリーによるヘンリー2世への反乱
1174年
ヘンリー2世の息子ヘンリー、リチャード、ジェフリーによる反乱
1185年
地震によるリンカーン大聖堂の崩壊
1189年
フランスのアンジューにてヘンリー2世崩御

イングランド国王に即位するまで

生まれた環境

ヘンリー(のちの2世)は1133年にフランス(Le Mans)で生まれました。父はアンジュー伯ジョフロワ(Geoffrey Plantagenet, Count of Anjou)、母はヘンリー1世の娘マチルダ(Empress Matilda)です。

  関連リンク   王位継承戦争:ヘンリー1世の娘マチルダ VS 甥スティーブン

ヘンリーは18歳のときに父からノルマンディ公領を継ぎ、19歳でアキテーヌ公女エレノア(Eleanor of Aquitaine)と結婚、21歳でイングランド国王に即位します。フランスに広大な領土を得ており、さらに1172年までに、ブリテン諸島とアイルランドの諸王の上位に君臨する大君主としての地位を確立しました。

アキテーヌ公女エレノアとの結婚の影響

ヘンリー2世の治世は、宿敵フランス国王ルイ7世(King Louis VII)との争いが絶えないものとなります。

ヘンリーはイングランド国王に即位する約2年前の1152年に、アキテーヌ公女エレノアと結婚しており、この結婚はルイ7世に大きな衝撃をあたえるものでした。アキテーヌ公女エレノアは、フランス国王ルイ7世の元妃だったからです。ヘンリーとエレノアの結婚は、ルイ7世との『結婚無効』が成立してからわずか8週間後のことでした。

14世紀に描かれたフランス国王ルイ7世とエレノア
左:結婚式
右:十字軍遠征
出典 Wikimedia Commons

ルイ7世と元妃エレノアの間には、娘はありましたが息子がありませんでした。もし、エレノアがヘンリーとの間に息子をもうけたなら、その息子がアキテーヌ公領を相続することになります。そうなった場合、ルイ7世あるいは娘によるアキテーヌ公領相続の主張はとても弱いものとなってしまうのです。

ヘンリーとエレノア(14世紀画)
出典 Wikimedia Commons

ヘンリー2世の治世

秩序の回復

イングランド国王スティーブンが(Stephen)崩御すると、ヘンリーはヘンリー2世としてイングランド国王に即位しました。

先の王スティーブンは、ヘンリー2世の母マチルダと王位を争った王です。この王位争いによってイングランドはながらく内戦状態となり無法地帯となりました。この間に各地の領主は勝手に城を建てていました。

  関連リンク   王位継承戦争:ヘンリー1世の娘マチルダ VS 甥スティーブン

そのためヘンリーは即位するとまず、力を蓄えた領主たちから権力を取り戻し、秩序を回復して、国王の権威を再確立する必要がありました。

ヘンリー2世は、国王による統治体制を建て直すべく、祖父ヘンリー1世(Henry I d. 1135)が亡くなった後に行われた数々の変更を覆しました。

ヘンリー2世はイングランドの財政を立て直し、こんにち「イングランドのコモン・ロー(Common Law)」として知られる法律の基盤を築きました。また、かつての内戦中に地方領主によって違法に建築された城のうち、約半数の取り壊しを行って、国王の権威を知らしめました。新たに城を建てる場合には国王の同意が必要となりました。

王立法廷

国王と教会の関係を変えてゆくこともヘンリー2世は課題としていました。ヘンリー2世は王立法廷を導入し、深刻な事案はここで裁くこととしました。

ヘンリー2世が即位したとき、法の在り方はややこしくなっていました。領主が取り仕切る荘園のコートが権力を競い合ったり、教会が取り仕切るコートが聖職者に有利な判決を下すなどしていたのです。

ヘンリー2世はロイヤルコート(royal court)を設立し、深刻な事案はここで裁くことにします。ほうぼうを旅する陪審員による裁判が一般的になり、審判は以前にくらべて公平になりました。

君主と教会の関係

トマス・ベケット

1160年代は、ヘンリー2世とトマス・ベケットの関係が焦点となります。

カンタベリー大司教テオバルト(Theobald of Bec)が1161年に亡くなるとヘンリー2世は、彼のアドバイザーであり友人でもあったトマス・ベケット(Thomas Becket)を次期カンタベリー大司教の地位につけました。

国王の味方であるベケットを通じて、教会への支配力を高める考えでした。しかし、大司教の座についたトマス・ベケットは、ヘンリー2世が期待した役割を果たしませんでした。ベケットは教会とその伝統を守ることを支持するようになります。ヘンリー2世が望んだ「王権が教会に勝ろうとすること」をベケットは許さず、ヘンリー2世と敵対したのです。

トマス・ベケットとヘンリー2世
(14世紀画)
出典 Wikimedia Commons

1170年までに、ヘンリー2世とベケットの関係は極限まで悪化していました。国王寄りの聖職者がトマス・ベケットによって解任されたと報告を受けたヘンリー2世は、こう叫んだと伝えられています。

あのいまいましい司祭からわたしを解放してくる者はおらんのか!
“Will no one rid me of this turbulent priest?”

しかしこれは伝説であり、ただしくは

どういう了見で君主を侮辱し恥をかかせるのか!
”(How they could) allow their lord to be treated with such shameful contempt.”

であった、と書いている本もあります。

いずれにせよ、ヘンリー2世がはなった言葉は、居合わせた4人の騎士によって”誤解”されました。騎士らはベケットの殺害を命じられたと思い、これを実行してしまうのです。

1170年12月29日、ベケットはカンタベリー大聖堂の祭壇前で殺害されました。この事件は、ヨーロッパじゅうのキリスト教国家に大きな衝撃を与えました。そしてまた、これまでヘンリー2世が成し遂げてきた偉業にも大きな影を落とすことになったのです。

トマス・ベケットの死
(13世紀画)
出典 Wikimedia Commons

1174年、ベケットは聖人として列せられました。ヘンリーは巡礼者として、裸足で礼拝所に赴き、僧侶たちからそれぞれ5回ずつの鞭打ちを受けました。この行いはベケット殺害の罪償いであり、自らを悔い改めたことを広く世間に宣伝する目的もありました。

  関連リンク   イングランド王ヘンリー2世のアイルランド侵攻

動画紹介

次の動画は、ヘンリー2世とベケットの関係に焦点をあてた、再現ドラマ付きのドキュメンタリー映像です。

領土の継承問題:息子の反乱

ヘンリー2世の支配下にあった広大な領土は、「アンジュー帝国」もしくは「プランタジネット帝国」として知られています。その領土が最大を誇った1173年は、同時に、ヘンリー2世の治世で最大の危機が訪れたときでもありました。

1154年頃のフランス
赤系のエリアが、ヘンリー2世とエレノアの領土
出典 Wikimedia Commons

その危機とは、他国がもたらしたものでもなければ、教会がもたらしたものでもありませんでした。ヘンリー2世の息子たちが父に対して反乱を起こしたのです。

ヘンリー2世は広大すぎる領土を分割して生存していた4人の息子たちそれぞれに相続したい考えでした。

ヘンリー2世と嫡子たち
(13世紀画)
出典 Wikimedia Commons

ヘンリー2世の息子たち:

  • (ウィリアム(William)…幼児期に死亡)
  • 長男:ヘンリー(Henry
  • 次男:リチャード(Richard
  • 三男:ジェフリー(Geoffrey
  • 四男:ジョン(John

しかし長男ヘンリー(父と同名)は、領土の分割に反対でした。長男ヘンリーは反乱軍を率い、次男リチャードも参戦、さらにフランス国王ルイ7世およびスコットランド王ウィリアム(King William of Scotland)がそれぞれの思惑のもとに介入し、イングランドとノルマンディの諸侯も反乱に加わりました。

ヘンリー2世には守らねばならない側面が多くありました。それにもかかわらず、ヘンリー2世は着実に敵を後退させることに成功し、堅固な守りを証明したのです。

アルンウィックの戦い(Battle of Alnwick)で国王軍は、スコットランド王ウィリアムを捕獲することに成功しました。これによってイングランド王がスコットランド王の上位に君臨する大君主であることを再確認させます。

ちょうどこの戦いの前、ヘンリー2世は、聖人として列せられたトマス・ベケットの殺害を悔い改めるための巡礼を公に行っていました。スコットランド王ウィリアムを捕獲できたことは、神がヘンリー2世の味方となって介入したように、ひとびとの目には映りました。これを機に、ヘンリー2世の評判は回復しました。

お家騒動が続くなか長男の病死、そしてヘンリー2世の崩御

この大勝利が大陸に伝わると、優勢を誇るヘンリー2世を敵にまわさないように、多くの諸侯がヘンリー2世の味方につきました。こうして大きな危機はさったものの、長男の不満は消えず、1182年にふたたび親子戦争に突入します。大陸のアキテーヌではじまり、膠着状態がつづきました。

この最中に長男ヘンリーが病死し、次男リチャードが王位継承の予定者となりました。

ヘンリー2世は1189年に亡くなりました。ヘンリー2世は最後まで息子との争いに苦しみました。このような内輪もめは、フランス国王フィリップ2世(Philip II of France)につけ入る隙をあたえてしまいました。

Fontevraud Abbey に眠るヘンリー2世と妃エレノア
出典 Wikimedia Commons

ヘンリー2世に対して反乱を起こさず、従順であったのは四男ジョンだけでした。ヘンリー2世が亡くなった時点では、リチャードとジョンが健在でした。リチャードが王位を継ぎますが、イングランドにはほぼ不在でした。十字軍遠征に参加したリチャードの留守中、イングランドを治めていたのはジョンです。ジョンはリチャード死没の知らせを受けてイングランド国王に即位します。

動画紹介

次に紹介する動画は、BBCが制作したプランタジネット家のドキュメンタリーです。全3回のなかの第1回は、ヘンリー1世の娘マチルダと国王スティーブンの王位争いからはじまり、ヘンリー2世の治世~ジョン王が亡くなるまでがまとめられています。

再現ドラマは少なめですが、博物館の収蔵品や、ゆかりの地を見ることができます。


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参考
King-Henry-II-of-England
House_of_Plantagenet
Angevin_Empire

イングランド王ヘンリー2世のアイルランド侵攻
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