ヘンリー3世は、第一次バロン戦争の最中に、9歳でイングランド国王に即位しました。僧侶によって育てられ、敬虔なキリスト教信者となり、芸術や学術、建築に傾倒しました。ゴシック様式でウェストミンスター修道院の再建を命じたのもヘンリー3世です。聖職者や妃の影響を受けやすい意志薄弱な人物だったと評されることがあります。
治世の後半に、第二次バロン戦争が勃発し、戦に負けて捕らわれの身となりました。その間に権力を握ったのがシモン・ド・モンフォールです。シモン・ド・モンフォールは諸侯会議の在り方を改革し、これがやがて「議会(パーラメント)」と呼ばれるようになり、ウェストミンスターで開かれるものとして定着しました。
関連記事 【歴代】イギリスの君主(国王・女王)一覧
抜粋文:このページでは、4ヶ国すべての君主※を掲載しています。知りたい国家および年代を、目次から選択してジャンプしてください。 ※「イギリス」は正式名称を「グレートブリ.....
ヘンリー3世(Henry of Winchester)
治世 | 1216年10月28日-1272年11月16日(56年29日) |
継承権 | ジョンの長男 |
生没 | 1207年10月1日:場所 Winchester Castle 1272年11月16日(65歳):場所 Westminster Palace |
家系 | プランタジネット家 |
父母 | John & Isabella of Angoulême |
結婚 | Eleanor of Provence(1236年) |
子供 | Edward I, King of England Margaret, Queen of Scots Beatrice, Countess of Richmond Edmund Crouchback Katherine of England |
埋葬 | Westminster Abbey |
年表
1216 | ヘンリー3世、9歳で即位 イングランドは2人の摂政※によって統治される ※摂政… ヒューバート・ド・バーグ (Hubert de Burgh)と、初代ペンブルック伯ウィリアム・マーシャル (William the Marshal) |
1217 | 第二次リンカーンの戦い( battle of Lincoln )およびサンドイッチの戦い( battle of Dover )に破れたフランスがイングランドから撤退 |
1220 | ソールズベリー大聖堂( Salisbury cathedral )の建設が始まる |
1222 | フランス王太子ルイ(のち8世)をイングランド国王に擁立していた勢力を、ヒューバート・ド・バーグが押さえ込むことに成功 |
1227 | ヘンリー3世によるイングランド統治の開始(摂政時代の終了、ただし ヒューバート・ド・バーグ はアドバイザーとして残留) |
1232 | ヒューバート・ド・バーグがアドバイザー職を解任される |
1236 | ヘンリー3世、プロヴァンスのエレノア( Eleanor of Provence )と結婚 |
1237 | スコットランド王アレクサンダー2世( Alexander II )とヨーク条約( Treaty of York )を締結し、イングランドとスコットランドの境界線を定める |
1238 | シモン・ド・モンフォール( Simon de Montfort )が、ヘンリー3世の妹エレノア( Eleanor )と結婚 |
by 1240 | ヘンリー3世の「諸侯大会議( Magnum Concilium )」が「議会( Parliament )」と呼ばれるようになる |
1245 | ウェストミンスター大聖堂( Westminster Abbey )の再建築はじまる |
1258 | モンフォールが率いたイングランド諸侯がヘンリー3世の失政に対して反乱を起こし「 オックスフォード条款( Provisions of Oxford )」を提出。ヘンリー3世がこれに署名 |
1261 | ヘンリー3世「オックスフォード条款( Provisions of Oxford ) 」を放棄 |
1264 | 第二次バロン戦争( Baron’s War )勃発 ヘンリー3世、ルイスの戦い( Battle of Lewes )でモンフォールに敗戦し、捕らえられる |
1265 | シモン・ド・モンフォールの議会 |
1265 | いくらかの諸侯がシモン・ド・モンフォールとの同盟を破って王太子エドワードを支持して、イブシャムの戦い( Battle of Evesham )でモンフォールを討つ |
1266 | 「ケニルワース宣言( Dictum of Kenilworth )」によって、ヘンリー3世が王権復帰 「 オックスフォード条款( Provisions of Oxford ) 」 は無効化 |
1267 | モンゴメリ条約( Treaty of Montgomery )によって、サウェリン・アプ・グリフィズ( Llewellyn ap Gruffydd )をウェールズの支配者( Prince of Wales )として認める |
1272 | ヘンリー3世、ウェストミンスター宮殿( Palace of Westminster )で死去 |
おもなできごと
第一次バロン戦争中に即位
ヘンリー3世はジョン王と2番目の王妃の間に生まれた長男です。1216年、第一次バロン戦争( First Barons’ War )の最中に父王が死亡し、ヘンリーは9歳でイングランド国王に即位することになりました。
教皇の使節としてイングランドに派遣されていたグアラビッキエリ( Cardinal Guala )は、ヘンリー3世を擁護しました。ウィリアム・マーシャル( William Marshal )が率いたヘンリー3世派軍が1217年の戦い( Lincoln & Sandwich )で反乱軍に勝利し、第一次バロン戦争は終結します。
この勝利によってヘンリー3世の国王としての地位が確定的になりました。しかし、ヘンリー3世が幼かったため治世のはじめは摂政※によって統治されました。また諸侯大会議( Magnum Concilium )が頻繁に行われるようになりました。
※摂政職…ヒューバート・ド・バーグ( Hubert de Burgh )、つづいてピエール・デ・ロッシュ( Peter des Roches )。
ヘンリー3世は1225年に大憲章( Charter of 1225)※を承認させられます。これは1215年の大憲章(マグナ・カルタ) の更新版で、王権に制限をもうけ、有力諸侯の権利を守る内容です。
※1225年の諸侯大会議…のちの「議会」の原形:出席者はカンタベリー大司教ほか司教12名、大修道院長20名、伯9名、諸侯23名
グアラビッキエリの使命
ローマ教皇の使節グアラビッキエリの使命は、イングランドの内戦を鎮圧し、フランスとの間にも和平をもたらすことでした。
ジョン王の治世の末期に始まった「第一次バロン戦争」は、イングランドの諸侯がフランス王太子を擁立して、ジョン王のイングランド王位剥奪を狙ったものです。
ローマ教皇イノケンティウス3世は十字軍遠征を計画していたので、このような内戦および国際線は、都合の悪いものでした。
治世のほとんどをイングランドに暮らす
1230年に、フランスのプロヴァンスを再征服※しようとしたヘンリー3世の試みは、大失敗に終わっていました。
※かつて父王ジョンが、フランス国王の侵攻を受けて失った領土。いっぽうでフランス国王ルイ9世は、ヘンリー3世がいまだ保有するガスコーニュ地方にも食指を伸ばしつつあった。
1232年には、ウィリアム・マーシャルの息子リチャード( Richard Marshal )が率いた反乱が勃発しますが、これはローマ教会が調停に入り一段落しました。
この反乱のあと、ヘンリー3世は親政を開始します。かつてのイングランド王は、統治する領土が広大だったこともありイングランドを不在にしてほうぼうへ旅することが多かったのですが、ヘンリー3世はその治世のほとんどをイングランドで暮らし、城や宮殿の建築に情熱をかたむけました。
ヘンリー3世はプロヴァンスのエレノア( Eleanor of Provence )と結婚し、5人の子供をもうけました。
ヘンリー3世は信心深かったことで知られ、宗教儀式を盛大に行い、エドワード証聖王( Edward the Confessor ※)を彼の守護聖人として崇拝していました。いっぽうで、イングランドに暮らすユダヤ人には厳しくあたり、莫大な金額を徴収し、ついには彼らがビジネスを行えなくなるほどでした。また、ユダヤ人のコミュニティを分離させる目的で、ユダヤ人法令( Statute of Jewry )を導入しました。
失地回復の夢、破れる
1242年、フランスの領土の再征服を再び志し、ポワトゥに侵攻します。しかし、散々な結果を招くことになりました( Battle of Taillebourg )。
遠征費用の捻出
ヘンリー3世は、遠征費用の徴収についても議会に諮って諸侯の承諾を得なければなりませんでした。しかし当時の諸侯はフランスのノルマンディとの縁が薄くなっており、ましてやアキテーヌとなれば、ヘンリー2世の妃がもたらした領土であって、イングランド諸侯にとってはほとんど利害も興味もない地域でした。このためイングランド諸侯は遠征に反対し、課税も拒否しました。
ヘンリー3世は、様々な方法で遠征費用を捻出しました:
- 軍役代納金
- 各種罰金
- 巡回裁判費の増額
- ユダヤ人への課税
- 借金
こうして11万6000ポンドを集めたヘンリー3世は、1242年にフランスに遠征しますが、憐れな結果となりました。
ヘンリー3世と、諸侯政府は1259年にフランスと和平を結びます(Treaty of Paris)。
- フランス国王ルイ9世は、ヘンリー3世を正式なアキテーヌ公と認め、ガスコーニュの領有を承認
- ヘンリー3世は、ガスコーニュ以外のフランスの領土の奪回を諦めること
これによってアンジュー帝国再建の夢は破れました。
ヘンリー3世は十字軍遠征に参加してレバント( Levant )へ向かう予定でしたが、フランスのガスコーニュ( Gascony )で起こった反乱のため、中止されました。
次男をシチリア王に据える試み、叶わず
ヘンリー3世は、弟であるコーンウォール伯リチャード( Richard of Cornwall )をローマ王(1257年~)に据えることには成功するのですが、大金をつぎ込んだにもかかわらず、息子エドマンド( Edmund Crouchback )をシチリア王に据える試みは叶いませんでした。
教皇と皇帝の確執
ローマ教皇イノケンティウス4世が、シチリア国王にエドマンドを推挙したいとして、ヘンリー3世に打診してきました。ヘンリー3世はこれを受けますが、当時のシチリアは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の私生児マンフレッドが支配しており、簡単な話ではありませんでした。教皇はマンフレッドとの抗争に巨額の軍資金を費やしており、ヘンリー3世はこれを肩代わりした上に、マンフレッドとの闘争に乗り出さなくてはなりませんでした。
シチリアに興味も利害もなく、教皇と皇帝の確執に巻き込まれたくもないイングランド諸侯は、このような目的の課税に反対し、ついに1258年、諸侯とヘンリー3世は大衝突することになります。
諸侯のクーデターとオックスフォード条款
1258年までに、ヘンリー3世による統治に対して不満の声が高まるようになっていました。大金をかけた外交の失敗、異父兄弟リュジニャン家のヒュー( Hugh XI of Lusignan )の悪評、徴税の不評などの結果です。
諸侯は連合してクーデターを起こし政権を掌握すると、オックスフォード条款( Provisions of Oxford )によって、国王政府に改革をもたらしました。
諸侯政権はいったん崩壊するのですが、ヘンリー3世は安定した政権を確立することができず、イングランドは不安定な状態が続きました。
第二次バロン戦争と息子エドワードの活躍
1263年、反乱指導者のひとりシモン・ド・モンフォール( Simon de Montfort )が権力を握り、第二次バロン戦争( Second Barons’ War )が勃発します。1264年のルイスの戦い( Battle of Lewes )に破れたヘンリー3世は、息子のエドワードとともに捕虜とされました。
しかしエドワードは脱出に成功し、1265年、イブシャムの戦い( Battle of Evesham )でシモン・ド・モンフォールを討ち、父王ヘンリー3世を解放しました。ヘンリー3世は反乱勢の残党に過激な復讐を試みますが、教会から諭されていくらか緩和しました( Dictum of Kenilworth )。反乱に加担した諸侯は、彼らの要塞を”買い戻す”ことを許されました。値段は、反乱に関与した度合いに応じたそうです。
シモン・ド・モンフォールの議会
ヘンリー3世に対する反乱を率いたのは、ヘンリー3世の義理の兄弟にあたるシモン・デ・モンフォールです。ヘンリー3世の妹エレノアと結婚していました。1265年のルイスの戦いに勝利したシモンは、議会(パーラメント)を開きます。ちなみに、パーラメントの語源はフランス語で「対話」を意味する parler だそうです。
シモンの議会では主だった諸侯のほかに、各シャイア( shire )から2人の騎士と、各バラ( borough )から2人の市民代表が呼ばれることになりました。このように地方から代表が招聘されることは、1258年以降に見られましたが、定着してゆくのは「シモン・ド・モンフォールの議会」以降だそうです。商人らの影響力が高まりはじめた印ともいわれます。
ヘンリー3世の死
王権の再確立には時間がかかりました。1272年、ヘンリー3世が亡くなり、長男のエドワードが王位を継承します。ヘンリー3世は、ウェストミンスター大聖堂()に埋葬され、1290年に現在の場所に改葬されました。
56年におよぶ在位期間は、中世イングランド史における最長の期間です。これを初めて超えたのは、18世紀後半に即位したジョージ3世(1760-1820)の在位期間です。
地図
ウェストミンスター
ウィリアム1世によるイングランド征服以来、ウィンチェスター( Winchester )がイングランドの政治拠点でしたが、フランスのノルマンディを失ってからは、ウェストミンスターへと政治拠点が移ってゆきました。ヘンリー3世がウェストミンスター修道院の再建を進めると同時に、ここが礼拝の中心地となり、さらに政庁を兼ねるようになってゆきました。諸侯大会議もウェストミンスターで開かれることが圧倒的に多くなりました。開催時期は1月、4月、7月、10月の年4回が定着してゆきます。ヘンリー3世の治世は、イギリス議会政治の礎が築かれた時代とされています。
参考
Kings and Queens of England & Britain
Henry_III_of_England
King Henry III (1216 – 1272)
A Really Useful Guide to Kings and Queens of England
物語イギリスの歴史(上)