1066年3人の王位争奪戦:クヌート大王時代にさかのぼる発端

1066年3人の王位争奪戦:クヌート大王時代にさかのぼる発端

1066年、アングロサクソン系の国王エドワード証聖王が子供のないまま没したとき、3人の人物がイングランドの王位を狙っていました。

1人目は、アングロ=ノルマンのウェセックス伯ハロルド・ゴッドウィンソン、2人目はノルウェー王ハラルド・ハルドラダ、そして3人目はフランスのノルマンディ公爵ウィリアムです。

※ウィリアム…フランス語読みではギヨーム

3人それぞれに、”王位継承を主張しうる” あるいは ”主張したくなる” 理由がありました。その発端は50年前、デーン人のクヌート大王がイングランドに侵攻してイングランド王位を略奪したときにさかのぼります。

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クヌートによるイングランド王位の奪取

エドワード証聖王の生い立ち

1066年に亡くなったエドワード証聖王(Edward the Confessor)は、アルフレド大王の子孫にあたるアングロサクソン系の王でした。

エドワード証聖王の父はイングランド国王エゼルレッド2世、母はノルマンディ公爵家のエマ(Emma of Normandy)です。エドワード自身はその少年~青年期を、母方の実家であるノルマンディ公爵家で亡命生活をおくって成長しました。

エドワードがなぜ亡命生活をおくっていたかというと、エドワードが子供の頃(1016年)、デーン人の王太子だったクヌート(Cnut the Great)がイングランドに侵攻したからです

※ノルマンディ公爵家…911年に西フランク王から領土(Normandy)と公爵位を授かったバイキングのロロを祖先とする家系。元バイキングといえど、11世紀ともなるとフランス化され、貴族として洗練されていた。
※クヌートのイングランド侵攻…過去数百年にわたるバイキングの活動の結果、あるいはその一環として。

フランスのノルマンディ公爵領:911年~1050年
フランスのノルマンディ公爵領:911年~1050年
出典 Wikimedia Commons

クヌート大王の北海帝国時代(1016年~1042年)

クヌートがイングランドに侵攻してすぐ、エゼルレッド2世は亡くなりました。王位を継いだのは長男エドマンドです。エドワードの兄にあたります。

エドマンドはクヌートに敗戦(Battle of Assandun)し、まもなく死去しました。そしてイングランド王位はクヌートに乗っ取られたのです。

エドワードは母方の実家ノルマンディへ亡命し、エドマンドの幼い息子2人はハンガリーに亡命しました。

クヌートは1016年にイングランド王位、1018年にデンマーク王位、1028年にノルウェー王位を獲得したため、その広大な支配域は「クヌートの北海帝国」とも呼ばれます。

クヌートの北海帝国
クヌートの北海帝国
出典 Wikimedia Commons

クヌートとエマの結婚

1017年、クヌートは未亡人となっていたエドワードの母エマと結婚します。政治的な意図をもった結婚でした。しかし、ふたりの関係はやがて愛情深いものになったと伝えられています。クヌートとエマの間には、子供も生まれました。

※クヌートとエマの結婚…クヌートはすでに エルフギフ(Ælfgifu of Northampton) とも結婚しており、 エルフギフは存命中だった。ただし、 エルフギフとは非キリスト教儀式を通じた結婚であったため、エマとの結婚は「重婚」として扱われなかった。このようなケースは、「ふたつの一夫一婦制」として許容される慣習だったらしい。Marriage_to_Cnut

クヌートの死後(1035年)イングランド王位はクヌートの息子ハロルド(Harold Harefootとハーデクヌーズ(Harthacnutが順に継承ました。しかしハーデクヌーズは嫡子のないまま亡くなります。ここでエドワードがノルマンディから呼び戻され、イングランド国王に即位することになったのでした(1042年)。

※ハロルド…父はクヌート、母はエルフギフ。ハロルドには Ælfwine という名の子供がいたが、おそらくは婚外子で、イングランド王位継承を主張しなかった模様。※ハーデクヌーズ…母はエマ。1035年にデンマーク王位を継承しており、1040年にイングランド王位も継承。

エドワード証聖王の封蝋
エドワード証聖王の封蝋
出典 Wikimedia Commons

このように、クヌートが3つの国の王を兼ねたために、北欧の王位継承者がイングランドの王位をも主張する原因となりました。いっぽうイングランド国内では、クヌート治世下で重用されて新たに台頭した貴族が、虎視眈々と玉座を狙い始めます。他方、クヌートから逃れたエドワードはノルマンディで育ったため、ノルマンディの人々がイングランドに強く興味を抱くきっかけになりました。

3人の王位継承権主張者

イングランド王位主張の関係図:太字がイングランド王
イングランド王の親戚関係図:太字が王
(ハラルドの名は図にないが、Magnus the Good of Norway からノルウェー王位を継承してイングランド王位争奪戦に参戦)
出典 Wikimedia commons

1人目:Harold Godwinson, Earl of Wessex
ウェセックス伯ハロルド・ゴッドウィンソン

主張:エドワード証聖王の遺言による王位継承の正統性

エドワード証聖王は、1066年1月に崩御しました。その死のまぎわに「王位を義理の兄にあたるハロルド・ゴッドウィンソン(ハロルド2世 / Harold Godwinson)に継承する」との遺言をのこしたというのが、ゴッドウィンソンの主張です。

ハロルド・ゴッソウィンソンは賢人会議を経て、ヨーク大司教によって戴冠されて、イングランド王位に就きました。

生い立ち:クヌート大王に重用されて台頭した家系

ハロルド・ゴッドウィンソン(Harold Godwinson)は、ゴッドウィンの息子です。父ゴッドウィンは国王クヌートからウェセックス領を授かってウェセックス伯爵となり、国王に継ぐ最大の権力を誇るイングランド貴族として台頭しました。ゴッドウィンはデーン系の貴族女性と結婚し、クヌートとは比較的近い親戚関係になりました。

※伯爵…当時のイングランドでは、Earl(伯爵)が貴族の最高位。国王に次ぐ権力を誇る。伯爵の上位である侯爵や公爵が制定されるのは後世。

関係:エドワード証聖王との関係

1042年に王位を継承したエドワード証聖王は、1045年にウェセックス伯ゴッドウィンの娘と結婚することになりました。エドワード証聖王の王位継承にはウェセックス伯の後援もあったのですが、ウェセックス伯とその息子のハロルド・ゴッドウィンソンは油断のならない相手でした。1051年を境に、エドワード証聖王とウェセックス伯の関係は悪化しました。

2人目:Harald Hardrada, King of Norway 
ノルウェー王ハラルド・ハルドラダ

ハラルド・ハルドラダ(ハーラル3世 / Harald Hardrada)はノルウェー王です。クヌートの北海帝国の再現をめざしデンマークとイングランドの王位を主張しました。

主張:クヌート時代の「北海帝国」を継承する権利

ハルドラダのイングランド王位継承権の主張は「クヌート時代の北海帝国」に基づいています。ノルウェーとデンマークとイングランドの3国は、ひとりの王が治めるべきという主張です。しかし実際のところクヌートの死後は、各国に異なる国王が君臨することになりました。そのため「北海帝国」は終了したように見えます。しかし実は、その国王同士がある契約を交わしていました。

契約を交わしたのは、当時のイングランド王にしてデンマーク王のハーデクヌーズと、ノルウェー王マグナスです。契約内容は「どちらかが先に死んだら、他方がその王国を継承する」というものでした。つまり、どちらか一方が亡くなると、他方が相手の王国を継承して、クヌート時代の北海帝国を再現するのです。

※ハーデクヌーズ…クヌート大王とエマの息子で、クヌートの死後にイングランドとデンマークの王位を継承した。
※マグナス…マグナスはかつてのノルウェー王家の血筋で、クヌートによって乗っ取られたノルウェー王位を、クヌートの死後に奪還した人物。

結果、ハーデクヌーズが先に亡くなりました。しかしマグナスは、デンマークの王位こそ継承できたものの、イングランド王位にはエドワード証聖王が就いてしまいました。

そんなマグナスから王位を継承したのが、ハラルド・ハルドラダ(ハーラル3世)です。しかし継承できたのは、ノルウェー王位だけでした。デンマーク王位にはスヴェン3世が就き、エドワード証聖王亡き後のイングランド王位には、ハロルド・ゴッドウィンソンが就いてしまったのです。

ハラルド・ハルドラダは「ハーデクヌーズとマグナスが交わした北海帝国の再現」の契約を根拠として、デンマークとイングランドの王位継承権も合わせて主張しました。

敵の実弟から支援を受けてイングランドに侵攻

ハルドラダは、ハロルド・ゴッドウィンソンを討って王位を獲得すべく、イングランドに侵攻しました。この後ろ盾となったのは、なんとハロルド・ゴッドウィンソンの実弟のひとりノーザンブリア伯トスティグ・ゴッドウィンソン(Tostig Godwinson)でした。ゴッドウィン家の兄弟は、分裂していたのです。

3人目:William, Duke of Normandy
ノルマンディ公ウィリアム

主張:エドワード証聖王との約束

ウィリアム(William the Conqueror)の王位継承権は、エドワード証聖王との約束を根拠としています。さらに「ハロルド・ゴッドウィンソンはウィリアムの王位継承に同意することを誓っていた」とも主張しています。なお、ノルマンディ公ウィリアムは、エドワードの従兄弟甥にあたります。

ハロルドがノルマンディ公ウィリアムの王位継承に同意を誓ったとするシーンをバイユーのタペストリーに描いている
出典 Wikimedia Commons

エドワードを通じてイングランドに興味をもったノルマンディ公爵

1042年にイングランド王位を継承したエドワードは、長年ノルマンディで亡命生活をおくってきました。このためエドワードの支援者には多くのノルマン人がいました。

イングランド王位を継承したエドワード証聖王は、多くのノルマン人をイングランドに連れてきました。廷臣や戦士、そして聖職者も連れてきて重要な役職に就け、基盤の安定を図りました。

このような交流は、ノルマンディ公爵がイングランドに興味を抱くきっかけになったかもしれません。またエドワード証聖王も、手ごわいウェセックス伯親子に対抗するためにノルマンディ公ウィリアムに期待を寄せた可能性があります。

1066年、エドワード証聖王の死を受けて、ハロルド・ゴッドウィンソンが王位に就きました。これに異を唱えたノルマンディ公爵は、ハロルド・ゴッドウィンソンの戴冠を「教会法(uncanonically)に従わないものであった」とする情報操作をおこなって、自らの王位継承権の主張に乗り出したのです。

動画紹介

次の動画は、ノルマンディ公爵家の歴史、ウィリアム征服王の生い立ち、そしてエドワード証聖王亡き後の王位争奪戦についてのドキュメンタリーです。ところどころに再現映像があるので、当時の雰囲気がわかります。

How The ‘French’ Conquered Britain & Changed The Course Of History | 1066 Documentary | Timeline

  関連リンク   ヨーロッパのバイキング時代と後世への影響

王位争奪戦

以上のような、それぞれの背景があって、エドワード証聖王亡き後の王位争奪戦争が勃発しました。この戦争に勝利したのがノルマンディ公ウィリアムです。イングランドの貴族層をすっかり入れ替えるという、前代未聞の、徹底した征服を行いました。

戦争のおおまかな経緯と、征服後のイングランドについては、次のリンクにまとめました。

  関連リンク   ノルマンコンクエスト:ヘイスティングスの戦い

もうひとりの王位候補者

アルフレド大王の直系エドガー・アシリングの人生

クヌートがイングランド王位を奪取した1016年、国王エドマンドの幼い息子2人がハンガリーに亡命しました。このうちのひとりエドワード・アシリングが生きていると知ったエドワード証聖王は、1056年に彼をイングランドに呼び寄せました。

ところがエドワード・アシリングは到着して間もなく死亡します。エドワード・アシリングには当時およそ4歳の幼い息子がありました。エドガー・アシリング(Edgar Ætheling)です。

エドガー・アシリングは、ウィリアム征服王に反旗をひるがえし、自身の王位を主張したこともありました。しかし敗戦し、ところが命を奪われることはなく、次代イングランド国王ウィリアム2世ともおおむね良好な関係を築くのです。ただしヘンリー1世とは敵対して、戦いに破れます。しかし、ここでも恩赦をうけ、70歳を超えて長生きしたようです。

エドガー・アシリングの人生は、次のリンク先に手短にまとめました。

  関連リンク   1066年、もうひとりの候補者:アルフレド大王の直系エドガー・アシリングの人生


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参考
Norman Conquest Emma of Normandy Edward the Confessor William the Conqueror House_of_Godwin Harald_Hardrada#Invasion_of_England

  関連リンク   中世後期のイギリス(年表式)11世紀・12世紀・13世紀・14世紀・15世紀