イングランド国王 ジョン (1166 – 1216 / r. 1199 – 1216)

イングランド国王 ジョン (1166 – 1216 / r. 1199 – 1216)

イングランド国王ジョンは、マグナ・カルタ / 大憲章(Magna Carta)に合意させられた王として有名です。

中世の僧侶は、国王ジョンを邪悪な王として描写し記録しました。このため後世の文芸作品などに暴君として登場します。現代の歴史家はジョンを「困難な時代に王権を拡大しようとしたエネルギッシュな王」と見ています。

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King John
イングランド国王ジョン

ジョン王(13世紀画)
出典 Wikimedia Commons
生誕1166年12月24日 Beaumont Palace, Oxford
死没1216年10月19日(49歳) Newark Castle, Newark-on-Trent, Nottinghamshire
身分アイルランド卿:
1177年5月-1216年10月19日
イングランド国王:
1199年5月27日-1216年10月19日
ヘンリー2世(Henry II
エレノア/エレナ(Eleanor, Duchess of Aquitaine
King John

おもなできごと

1199年
兄王リチャード1世の死を受けてイングランド国王に即位(32歳)
1203年頃
ジョン王、甥のアーサー王子殺害疑惑
1205年
ジョン王、教皇が推すスティーブン・ラングトンのカンタベリー大司教就任を拒絶
1208年
教皇イノケンティウス3世が秘蹟執行禁止命令を布く
1213年
破門されていたジョン王、教皇に服従
2014
ジョン王、ブーヴィーヌの戦いに大敗する
1215年
ジョン王、マグナ・カルタにしぶしぶ合意
1215
教皇によるマグナ・カルタ無効宣言後、諸侯の反乱が再勃発
1216
フランス王子ルイがイングランド上陸、ロンドン塔を掌握
ジョン王、病死(49歳)

誕生

ジョンは、イングランド国王ヘンリー2世とアキテーヌ公女エレノア(エレナ)の間に生まれた末息子です。1166年のクリスマス・イブに、オックスフォードのバーモント宮殿(Beaumont Palace / 位置)で生まれ、まもなくアンジューのフォントヴロー修道院(Fontevraud Abbey / 位置)に移されました。

ジョンは「失地王(Lackland)」として知られています。末息子のジョンには当初、相続できる土地がなかったので、このようなあだ名がつけられました。

甥アーサーの殺害疑惑

イングランド国王ジョンは、”甥のアーサー(Arthur)を石に縛り付けてセーヌ川に投げ入れた”と云われています。事実であれば、殺害の理由はおそらく、甥のアーサーが自身の王位継承を主張したためだろうと考えられています。

ブルターニュのアーサー1世
出典 Wikimedia Commons
イングランド王家におけるアーサーのポジション
出典 Wikimedia Commons

アーサーは、国王ジョンの兄ジェフリーの息子です。アーサーはフランス国王フィリップと同盟したため、ジョン王への脅威が差し迫ったものとなりました。

アーサー王子殺害の噂が反乱を呼ぶ

アーサー王子殺害の噂は、ブルターニュを反乱に駆り立てました。このときジョン王には、反乱を鎮圧したり、多方面の敵と戦う余力がありませんでした。1203年12月、やむをえず、イングランドへ撤退します。

ジョン王が22人の諸侯を餓死させた事件

ジョン王は忠実な臣下に命じて「アーサー王子の王位継承を支持した22人の諸侯を、イングランドのコーフ城(Corfe Castle)に閉じ込めて放置」させました。この諸侯は飢え死にしました。

諸侯は、それぞれが異なる主君と同盟していても、互いに何らかの形でつながりがありました。ジョン王の非道ぶりは味方の諸侯からも不信を買うことになります。味方だった諸侯はフランス国王フィリップのもとへと逃亡しました。

村を見下ろす丘に建つコーフ城
出典 Wikimedia Commons

コーフ城

諸侯が餓死させられたコーフ城は、城跡が残っています。ナショナルトラストの管理下で一般公開されており訪問できます。

公式サイト:
https://www.nationaltrust.org.uk/corfe-castle

所在:
The Square, Corfe Castle, Nr Wareham, Dorset, BH20 5EZ

失地回復に失敗

1203年12月にジョンがイングランドに撤退すると、フランス国王フィリップは、ノルマンディを占拠しポワトゥーとアンジューを掌握しました。父ヘンリー2世とジョンの兄たちが支配してきたフランスの広大な領地は失われ、アキテーヌだけがジョンの領土として残るのみとなりました。

ジョン王は2014年の「ブーヴィーヌの戦い(Battle of Bouvines)」で大敗し失地回復に失敗します。戦争に必要な資金をイングランドの諸侯から集める諸税で賄おうとした結果、イングランド国内の諸侯の反乱を招くことになりました。

赤:ヘンリー2世(ジョン王の父)時代の領土
青+緑:フランス王朝カペー家の所領
出典 Wikimedia Commons

教皇による秘蹟執行禁止命令

教皇の権威を拒絶したジョン王への制裁

1206年に、ジョン王とカンタベリーの僧侶のあいだで、次期カンタベリー大司教の座に誰を就けるかという論争が起こっていました。このとき教皇イノケンティウス3世が介入してきます。教皇は、スティーブン・ラングトン(Stephen Langton)という人物を推薦しました。

スティーブン・ラングトンは、パリで神学をまなんだ神学者です。イノケンティウス3世とラングトンは20年来の知り合いでした。両者は、聖トマス・ベケットへの思い入れも共有していました。

しかしジョン王にとってみれば、敵国パリに何年も暮らしていた人物を、自国の大司教にしたいとは思いません。なにより教皇の意向がまかり通るようなことがあっては、王権の弱体化につながるという危機感がありました。

そのためジョン王は、教皇が推したスティーブン・ラングトンの大司教就任を拒んだのです。すると教皇イノケンティウス3世は、ジョン王を戒めるために、1208年3月に「秘蹟執行禁止命令(interdict)」を発しました。

これによって、だれもミサに参加することが許されず、葬儀を行うことも許されなくなりました。(新生児の洗礼と、亡くなる際の懺悔だけが許されました。)

さらに1209年、ジョン王は破門されます。ジョン王は2013年に教皇に権威を受け入れて服従しました。

秘蹟執行禁止命令は1214年7月まで、6年もつづきました。人々は死後に地獄へ落とされることを恐れて不安に陥りました。

教皇イノケンティウス3世
出典 Wikimedia Commons

マグナ・カルタ

王権に制限を設け、諸侯と自由民の権利を拡大

ジョン王は諸侯との関係に諸問題をかかえ、反乱を鎮圧できなかった結果、諸侯からマグナ・カルタへの合意を余儀なくされました。

マグナ・カルタは、王権に制限を設け、諸侯と自由民の権利を拡大するものです。(なお不自由農民については触れられていません。)

1215年のマグナカルタ
羊皮紙に中世ラテン語でかかれている
封蝋の原物は数世紀の間に紛失
大英図書館所蔵
出典 Wikimedia Commons

諸侯がジョン王に不満を募らせた理由のひとつに「増税」があります。ジョン王は、フランス内で失った領土を回復するために、戦いの資金が必要でした。様々な方法で税を課して資金を増やそうとしたところ、諸侯の怒りを買いました。

1215年、ジョン王に怒り心頭していた諸侯が群を編成し、フランスとスコットランドの支援を得て、5月17日にロンドンを占拠しました。

ジョン王は諸侯の言い分を呑んで交渉するしかなく、ロンドン近くのラミーニード(Runnymede)で反乱勢と会い、1215年6月15日にマグナ・カルタに署名しました。

マグナカルタに署名するジョン王(19世紀画)
(実際には王自身ではなく代理の役人によって、また署名ではなく王の封蝋によって承認されたと考えられる)
出典 Wikimedia Commons

「ジョン王がマグナ・カルタに署名した場所」とされる地点にモニュメントが建てられています。

公式サイト:
https://www.nationaltrust.org.uk/runnymede/features/memorials-at-runnymede

マグナ・カルタ 記念碑(1957)
出典 Wikimedia Commons

マグナ・カルタのその後

一旦はマグナ・カルタに合意したジョン王ですが、すぐさま教皇の支持を得てマグナ・カルタを無効化しました。このため、諸侯の反乱が再勃発します。

フランス国王フィリップは息子のルイをイングランド国王として擁立し、イングランドに上陸させました。このときマグナ・カルタは無効化されたままでした。ルイがイングランド王位を獲得したとしても、マグナ・カルタの内容は継承されません。

ジョンは北に向かって敗走しました。

沼地に沈んだ財宝

ジョン王の敗走中、ジョンの宝物を積んだ荷車は、近道をしようとしてウォッシュ(the Wash)河口の湿地帯を通り、沼に足をとられました。すぐに潮が満ちて王室の宝物と荷車が海に消えてしまったと伝えられています。

ジョンは敗走先で病死しました。49歳でした。しかしこれが、マグナ・カルタ復活の契機となります。

このときジョンの息子ヘンリーは、まだ9歳の少年でした。イングランド諸侯と大司教は、ヘンリーを国王として承認するのと合わせて、マグナ・カルタの有効性を復活させることに成功しました。

イングランド諸侯の支持を失ったフランス王子ルイは撤退しました。ヘンリー3世の治世にマグナ・カルタは3度修正され、再発行されました。

動画紹介

BBC公式配信:ドキュメンタリー『プランタジネット家』

次の動画は、BBCドキュメンタリー『プランタジネット家』の全3回にわたる放送のなかの第1回目です。ジョン王の父ヘンリー2世の生い立ちからジョンの兄たちの治世、そしてジョン王の時代までを網羅しています。

The Devil’s Brood – Ep: 1 | Plantagenets | BBC Documentary

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参考
King John and Magna Carta
King John – the Tyrannical Ruler
British Library : Murder of Prince Arthur in Chronicle of Margam Abbey
HISTORY TODAY : Starved to Death
Revival and survival: reissuing Magna Carta

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