王位継承戦争:ヘンリー1世の娘マチルダ VS 甥スティーブン

王位継承戦争:ヘンリー1世の娘マチルダ VS 甥スティーブン

ヘンリー1世は娘のマチルダを王位継承者として宣言しました。しかしヘンリー1世がなくなると、甥のスティーブンが王位に就いてしまいます。マチルダはノルマンディからイングランドに上陸します。イングランドで王位継承の内戦が繰り広げら、ノルマンディでも公爵位を巡る戦争が繰り広げられました。

ヘンリー1世、マチルダに王位継承を宣言

ヘンリー1世の嫡男が亡くなり領土と家系存続の危機

ヘンリー1世には、娘マチルダと息子ウィリアム(William Adelin)がいました。ウィリアムがヘンリー1世の唯一の嫡男でした。しかし1120年の「ホワイトシップ事件(White Ship)」で命をおとします。これによって、ヘンリー1世の家系の存続が危機におちいりました。

ブロワ伯の息子スティーブンを継承者として視野に入れるも…

ヘンリー1世の妃は亡くなっていましたので、再婚して嫡男の出産を期待しましたが、新しい妃とのあいだに子供はうまれませんでした。やむなく、ヘンリー1世は姉の息子であるブロワのスティーブン(Stephen of Blois)を後継者として視野に入れ始め、おそらくは準備を進めたのかもしれません。

考えあらため娘マチルダを継承者として宣言

しかし、その考えは一変しました。それは、娘マチルダ(Matilda)が嫁いだ神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世(Henry V, Holy Roman Emperor)が亡くなったときでした。ヘンリー1世は、未亡人マチルダをノルマンディに呼び戻し、アンジュー伯家のジョフロワ4世(Geoffrey of Anjou)と結婚させました。

アンジュー伯とはついこのまえまで領土争いの戦争をしていた仲です。条件が変われば、関係も一変します。

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ヘンリー1世は、アンジュー伯と同盟することで、ノルマンディ公爵領の南の境界を守る考えでした。さらに、マチルダをイングランド王位継承者として指名しました。ヘンリー1世は1126年のクリスマスに主要な貴族を招集して、マチルダの王位継承を認めることを誓わせました。

しかしこの夫婦と父ヘンリーの仲は悪化し、事態はヘンリー1世が期待したほどスムーズには進みませんでした。そんななか、1135年にヘンリー1世は崩御します。

イングランド伝統の王位継承法

継承権者が正統性を主張し争う

じつは、この時代の西ヨーロッパの継承権はあまり定まっていませんでした。

フランスの一部では、長男による位と領土の相続(male primogeniture)が一般的になっていました。フランス国王については、国王が存命のうちに次代へ王位を継承する伝統がありました。意図した相続をより確実にするためです。

しかし、このような伝統はイングランドにはありませんでした。このためイングランドの王侯貴族が講じることのできる最善の方法は、正当な継承者を指名(ときに順位付きで複数)することだったと考えられています。そして家長の死後は、継承権者らが正統性を主張し争うのです。

この不安定な継承権問題は、ノルマン人による征服後にさらに複雑になりました。ウィリアム征服王は王位継承を争ってイングランドに侵攻し、その息子たちも継承権を争って戦い四男だったヘンリー1世がノルマンディ公爵位と領土を獲得しています。争いが絶えなかったのです。

スティーブン VS マチルダ

1135年:ティーブンがイングランド国王として戴冠

1135年にヘンリー1世が亡くなると、マチルダの王位継承は、イングランドの貴族たちから反対されました。またマチルダの従兄弟にあたるブロワのスティーブン(Stephen of Blois)は、早々にイギリス海峡を封鎖してマチルダの上陸をはばみました。

スティーブンは、実弟であるウィンチェスター司教ヘンリー(Henry, Bishop of Winchester)の支援を後ろ盾に、戴冠にこぎつけます。

スティーブンは、ヘンリー1世のまえでマチルダの王位継承を認めて支援することを誓っていました。それにもかかわらず、我先にと戴冠を急いだ理由として「イングランドの秩序を取り戻すことが優先である」と主張しました。

スティーブンの治世のはじめには、スコットランド王デイビット1世(David I of Scotland)およびウェールズ人(Welsh)によるイングランド王国への攻撃や、マチルダの夫アンジュー伯ジョフロワ(Geoffrey, Count of Anjou)によるノルマンディ公爵領への攻撃がありました。けれども、よいすべりだしでした。スティーブンは政権を固めることに注力しました。

国王スティーブン
出典 Wikimedia Commons

1138年:国内で反乱発生

しかし1138年、マチルダの異母兄弟であるグロチェスター伯ロバート(Robert, 1st Earl of Gloucester)が反乱を起こし、内戦の危機がおとずれます。

1139年:マチルダがイングランドに上陸

翌1139年、マチルダがロバートの援助を得てイングランドに侵攻しました。スティーブンはこの反乱を即座に押さえ込むことができませんでした。マチルダ勢はイングランド南西に拠点をかまえました。

1141年~:捕虜の交換、脱出、戦いの決着つかず

1141年のリンカーンの戦い(battle of Lincoln)でスティーブンが捕獲されると、それまでスティーブン側についていた人々の多くが彼を見捨てました。

同1141年、マチルダ側のロバートが敵に捕獲されました。互いに捕虜となったロバートとスティーブンの身柄の引き換えに、マチルダは合意します。

その冬、スティーブンの軍がマチルダのいるオックスフォード城(Oxford Castle / Oxford Castle)を包囲しました。捕虜となることをさけるためマチルダは、夜のくらやみに紛れて脱出し、雪に紛れるために白い外套に身を包んで、凍ったイシス河を渡り、アビンドン(Abingdon)に向かいました。

戦争はどちらの勝利ともつかない膠着状態となりました。マチルダはイングランドの南西部の多くを掌握し、スティーブンは南東部と中央部を掌握していました。その他の地域は、独立した領主らの手にありました。

1148年:マチルダの退却

1148年、ついにマチルダはイングランドを離れ、ノルマンディに退却します。マチルダが正式に戴冠することはありませんでした。このためマチルダの称号は”レディ・オブ・ザ・イングリッシュ(Lady of the English)”となっています。

(1153年)
赤:スティーブンが掌握
青:アンジューが掌握
灰:ウェールズ人の地
黄:チェスター伯領とレスター伯領
緑:スコットランド
出典 Wikimedia Commons

その間とその後

アンジュー伯(プランタジネット家)がノルマンディを獲得

イングランドで王位争いの内戦が繰り広げられているあいだ、マチルダの2番目の夫アンジュー伯(プランタジネット家)ジョフロワは、フランスのノルマンディで戦いを繰り広げていました。

1144年、ジョフロワは、自身をノルマンディ公爵として認めさせることに成功します。スティーブンはノルマンディ公領を失いました。

イングランド王国の王位はスティーブンが維持し、ノルマンディ公爵位はプランタジネット家へと移ったのです。

マチルダとジョフロワの息子ヘンリーがイングランド王位を継承

さて、マチルダと夫ジョフロワの間には息子たちが誕生していました。スティーブンにも息子がありました。ところがスティーブンの息子は、不慮の死をとげてしまうのです。このとき、マチルダとジョフロワの長男ヘンリーに王位継承権が巡ってくることになりました。

ヘンリーはスティーブン亡き後、王位を継承してヘンリー2世としてイングランド王国に君臨します。ここからプランタジネット朝がはじまります。

イングランドを征服したウィリアム征服王とその四男ヘンリー1世の血は、マチルダからヘンリー2世へと受け継がれました。家名という点ではプランタジネット家となります。プランタジネット家に生まれたヘンリー2世は、両親からイングランド王国とノルマンディ公爵領とアンジュー伯領という、広大なエリアを相続しました。さらにフランスにアキテーヌという広大な領土をもつエレナと結婚したために、領土はさらに拡大されるのです。ヘンリー2世のお話はまたの機会に…。

動画紹介

BBCドキュメンタリー

BBC制作のドキュメンタリー『プランタジネット朝 全3回』のなかの第1回の動画です。プランタジネット朝はヘンリー2世から始まります。その序章として 03:00 あたりから 12:30 まで、マチルダとジョフロワ(ジェフリー)について大まかな流れが紹介されています。

The Devil’s Brood – Ep: 1 | Plantagenets | BBC Documentary

参考
Henry_I_of_England
 William_Adelin
  White_Ship
 Empress Matilda Geoffrey V, Count of Anjou House of Plantagenet
  Henry_II_of_England
Stephen of Blois
  The Anarchy

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