ノルマンコンクエスト: イングランド完全征服までの道のり

ノルマンコンクエスト: イングランド完全征服までの道のり

ヘイスティングスの戦いに勝利したノルマンディ公ウィリアムは、イングランド国王として戴冠しました。王座を狙う主なライバルこそいなくなったものの、ウィリアムの支配に対する反乱がイングランド各地で起こりました。ウィリアムはこの制圧に数年を費やすことになります。

ウィリアムがイングランド国王としての地位を確実なものにできたのは、主な反乱の鎮圧を終えた1072年です。ウィリアムは、反乱を起こしたイングランド貴族の土地を没収しました。また、いくらかの貴族はみずから亡命しました。

  関連リンク   ノルマンコンクエスト:ヘイスティングスの戦い

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ウィリアム征服王の戴冠式

護衛兵が喝采を反乱の声と勘違いし現場が混乱

ノルマンディ公ウィリアムは「ヘイスティングスの戦い(Battle of Hastings)」に勝利したあとロンドンまで、道中の反乱勢を征討しながら行進しました。ウィリアムの戴冠式は、同年(1066)のクリスマスに、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey / Westminster Abbey)で行われました。

式は二か国語でおこなわれました。ノルマンディ人のためにフランス語で執り行ったのがノルマンディのクータンス司教(Bishop of Coutances)です。イングランド人のために英語で執り行ったのがヨーク大司教アルドレッド(Aldred, Archbishop of York)です。ウィリアムはカンタベリー大司教のスティガント(Stigand)を快く思っていなかったのでこのような人選になりました。

式の過程で、ヨーク大司教アルドレッドが「ウィリアムを国王として認めるか」と尋ねたとき、参列していたイングランド人は承諾の意の歓声を上げました。ところがこの歓声が、寺院の外で護衛の任についていたノルマン兵によって誤解されます。ノルマン兵は、イングランド人による喝采の声をを”反乱の声”だと勘違したのです。

ノルマン兵は反乱に応じるべく、寺院の周囲の家屋に火を放ち始めました。煙は教会のなかまでたちこめ、会衆は逃げ出し、暴動が発生しました。

それでも、混乱の中で、ウィリアムの戴冠式は完遂されました。

ウィリアム征服王の戴冠式
19世紀の歴史本に添えられた挿絵
出典 Wikimedia Commons

領土の再分配

アングロサクソン人の領土を取り上げてノルマン人に分配

ウィリアム征服王は、彼に逆らった領主の土地を取り上げました。その土地は、ウィリアムを支援して共に戦ったノルマン貴族に分配されました。

土地を介した領主と臣下の封建的な関係は、アングロサクソン社会にもありました。しかしノルマン人の封建制はアングロサクソン人のものと、ある点において大きく異なっていました。それは”イングランド全土が国王ひとりに帰属する”という点です。

  関連リンク   アングロサクソン人の社会

つまりウィリアム征服王は、広大なイングランドのどの土地をどんな人物に貸し与えるか、すべてを決めることができ、これは非常に大きな権力となりました。

エドウィンとモーカーの反乱

ほとんどの土地がノルマン貴族の手に渡るなか、アングロサクソン人のマーシア伯エドウィン(Edwin)とノーザンブリア伯モーカー(Morcar)は、領地を保持することを許されました。彼らはヘイスティングスの戦いにおいて、ウィリアムに対して攻撃をしなかったからです。領土保有の条件は、ウィリアムを国王および領主として認めることでした。

ウィリアム征服王は戴冠を終えた1067年、ノルマンディに帰ります。このとき、エドウィンとモーカー、エドガー・アシリング、その他のアングロサクソン領主を連れてゆきました。この一行は翌1068年にイングランドに戻ってきました。

このアングロサクソン領主たちは、イングランドに戻ってきたときノルマン人に対して憤慨していました。その理由は「イングランドで巻き上げられる税がノルマンディの利益のために使われていることを知ったからだろう」と、と言われています。

イングランド各地に建つノルマン人の城も、アングロサクソン貴族にとって不快でした。くわえて、エドウィンとモーカーの領土は縮小されて他の者に与えられ、あるいはノルマン貴族によって不法に占拠された地域もありました。

ノルマン人によるレイプも横行したといいます。こうしてノルマン人による支配に対して、反乱の機運が高まりました。

エドウィンとモーカーは1068年に反乱を起こしました。これを皮切りに、ウィリアム征服王に対する反乱が各地で続きました。

北部の蹂躙

イングランド北部の反乱に虐殺で応酬

ウィリアム征服王はヘイスティングスの戦いに勝利し、戴冠して国王の座についたものの、イングランドには反乱勢も残っていました。

もっとも大きな反乱はイングランド北部で1069年に起こりました。これを率いたのはエドガー・アシリング(Edgar the Atheling)です。エドガー・アシリングは、アルフレド大王の直系にあたり、クヌート大王時代に外国に亡命していたエドワード亡命王子(Edward the Exiled)の息子です。

  関連リンク   1066年、もうひとりの候補者:アルフレド大王の直系エドガー・アシリングの人生

エドガー率いる反乱には、デーン人とスコットランド人の軍隊が加わりました。

ウィリアム征服王はこの大反乱を鎮圧しました。しかしイングランド人に対する不信はぬぐえなくなりました。そこでウィリアム征服王はイングランド北東の村々を焼き払い人々を殺すよう命じました。

家畜の群れも穀物も、すべてが焼き払われました。ウィリアム征服王はもはや、この地の人々が実際に反乱を起こしたか否かにかかわらず、虐殺を行いました。それだけでなく、ウィリアム征服王は土地に塩を撒いて、穀物の育たない状態にしました。殺害をまぬがれた人々は飢えて亡くなりました。悲惨な状況でした。カニバリズム(人肉を食べる)が生じたとする話も伝えられるほどです。

地域人口の7割以上が亡くなりました。

この出来事は「北部の蹂躙(Harrying of the North)」と呼ばれます。感性の異なる現代の我々だけでなく、当時の人びとも過剰な虐殺だと感じていたようです。ノルマン系イングランド人の年代記編者ビリタス(Vitalis)は「神の罰がくだってもおかしくないのだが(制圧し国王として君臨した)」という趣旨を書き残しています。

ヘリワード・ザ・ウェイクの反乱

湿地を利用した反乱、征服王は土手を築いて討伐

北部の反乱を鎮圧したウィリアム征服王に、次なる危機が訪れます。デンマーク王スウェン2世によるイングランド侵攻です。

1070年、デンマーク王スウェン2世(Sweyn II)は艦隊を率いてイングランドに到着するとイーストアングリアのイーリー(Ely)へ向かいました。

当時のイーリーは湿地帯で、土地に慣れた人の知識がなければ危険な場所でした。デンマーク王スウェン2世は、この地を拠点としてわずかに残っていた反ウィリアム勢力と合流しました。この反乱勢を率いていたのがヘリワード・ザ・ウェイク(Hereward the Wake)です。

ヘリワード・ザ・ウェイク
19世紀のイングランド史の本に掲載された挿絵
出典 Wikimedia Commons

ヘリワードはかつてこの地域のセイン(従士/領主)でしたが、エドワード証聖王の時代に追放されていたらしく、イングランドに戻ってみると彼の領土はノルマン人の手に渡っていました。

ヘリワードは、湿地帯の危険性を熟知していることを利点としてゲリラ戦を展開しました。

デーン軍とヘリワード軍はともに、ピーターバラ修道院(Peterborough Abbey together)を襲撃しました。この修道院に収められていた貴重品や財宝は、ノルマン人の手にこそ渡りませんでしたが、代わりにデンマークへと運ばれていきました。

ノーザンブリア伯モーカー(Morcar)もヘリワードに加わりました(エドウィンはこの時点までに死亡していました。)

ウィリアム征服王は湿地に囲まれたイーリーに土手を築くことで、兵を送り込む道をつくりました。この案は順調に進むかに見えましたが、兵の重さを支えられずに橋が壊れ、兵たちが沼に沈んでしまいました。

しかし2度目の挑戦は成功しました。

さらにイーリーの修道院長サースタン(Thurstan)が修道院の行く末を按じて、ノルマン人と秘密裏に契約をむすびました。サースタンは、ノルマン人に秘密の道を教えたのです。

ウィリアム征服王の軍が沼地を渡り、正面切っての戦いとなると、ヘリワードは仲間を引き連れて姿をくらましました(!)モーカーは捕獲され投獄されて厳しい罰を受けました。

ヘリワードの人生に言及した文書はいくつかあり、記述に矛盾がみられます。「このあとヘリワードの名が聞かれることはなかった」と記す書もあれば、「ウィリアム征服王によってヘリワードに土地が返還(封土)された」と記す書もあります。後者では、ヘリワードはウィリアム征服王に従って対スコットランド戦にさえ参加したとされています。

この反乱は、アングロサクソン人による一連の主な反乱の最後として位置づけられています。

スコットランドとの和約

イングランドの反乱を支援したスコットランド王、ウィリアム征服王に降参

1072年、ウィリアム征服王はスコットランドに侵攻しました。イングランド北部の反乱に加担したスコットランド王マルカム3世(Malcolm III)を懲らしめるためでした。

18世紀に描かれた想像上のマルカム3世
出典 Wikimedia Commons

マルカム3世は降参し、アバネシーの和約(Treaty of Abernethy)が結ばれました。マルカム3世の息子ダンカンは人質としてウィリアムに渡されました。この和約に付された条件は他にもあり、マルカムが匿っていたエドガー・アシリングの追放も含まれていました。

イングランドの征服をおおむね成し遂げたウィリアムは、大陸の領土ノルマンディにかかる戦争(対アンジュー伯)に向けてイングランドを後にしました(1073)。

  関連リンク   11世紀ー12世紀のスコットランド

ドームズデーブック

再分配のために土地の価値を調査し記録した台帳

ウィリアムは、征服した王国を統治するために、家臣に土地を与え、各地に軍事拠点の要塞を建てました。ウィリアム征服王は、イングランドおよびウェールズの一部の国土大調査を命じ、これを台帳に記録させました。

ドームズデーブック(20世紀の画)
出典 Wikimedia Commons

国土調査の主な目的は、エドワード証聖王時代にどのような税が課されていたかを把握することでした。そうすることで、土地を再分配するための評価基準としました。この土地評価が記録された書物をドームズデーブック(Domesday Book)と呼びます。

ドームズデー(doomsday)とはキリスト教における「最後の審判の日、この世の終わり、世界滅亡の日」です。この書物には、じつは正式な名前がありませんでした。ノルマン人によって国土が審査され再配布され貴族層が入れ替わるという前代未聞の征服に対して、イングランド人が抱いた印象が、12世紀頃にこの書物の通称となったとされています。

国土調査の年について「アングロサクソン年代記(Anglo-Saxon Chronicle)」には、”1085年に計画され1086年中に完了した”と書かれています。

じつはドームズデーブックは1冊ではありません。おそらくは2冊になる予定でした。調査資料をまとめて完成された第一巻をグレートドームズデイと呼び、何らかの理由でまとめられることなく調査資料のままのものをリトルドームズデーと呼びます。

ドームズデーブック:ウォリックシャーに関する1ページ
出典 Wikimedia Commons

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参考
william the conqueror
westminster-abbey.org: William I (the Conqueror)
The Norman Conquest and coronation of King William at Westminster
GCSEEdexcel Revolt, resistance and control in Norman England
KS3The Norman Conquest
The Conquest and its Aftermath
Hereward the Wake and the rebellion at Ely 1070-71
Hereward_the_Wake#Primary_sources
William_the_Conqueror
Edwin and Morcar’s Rebellion, 1068
Norman Conquest

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