ノルマンコンクエスト:ヘイスティングスの戦い
       

「ノルマンコンクスト」とは、フランスのノルマンディ公爵ウィリアムが、イングランドに侵攻してこれを征服し、ノルマン王朝を開くに至った出来事です。

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ノルマンコンクエストのおおすじ

アルフレド大王(Alfred the Great)の直系にあたるエドワード証聖王には子供がありませんでした。このため、1066年にエドワード証聖王が崩御すると、3人の王位争奪戦が起こります。

  • 1人目:ハロルド・ゴッドウィンソン(イングランドのウェセックス伯爵)
  • 2人目:ハラルド・ハルドラダ(ノルウェー王ハーラル3世)
  • 3人目:ウィリアム(フランスのノルマンディ公爵)

※3人…このほか、じつはアルフレド大王の直系にあたるエドガー(Edgar)が賢人会議によって候補に挙げられましたが、戴冠することはありませんでした。

この王位争奪戦に勝利したのが、ノルマンディ公爵ウィリアムです。イングランドに侵攻し、ヘイスティングスの戦いにおいて、即位したばかりの国王ハロルドを破りました。ノルウェー王ハラルド・ハルドラダは、この少し前に、ハロルドに敗戦して命を落としていました。

ウィリアムは1066年のクリスマスにイングランド王として戴冠し「ウィリアム征服王(William the Conqueror)」と呼ばれることになります。またこの出来事をノルマンコンクスト(Norman Conquest)と呼びます。

ウィリアム征服王は、イングランドの国土を従来の貴族から没収し、ノルマン貴族に再配布しました。このためイングランドの貴族層が入れ替わるという前代未聞の征服となりました。イングランドの歴史のみならず、ヨーロッパ史においても重要な出来事となります。

19世紀に描かれた11世紀頃のノルマン人の衣装
出典 Wikimedia Commons

王位請求者3名の争い

勝利したのはノルマンディ公爵ウィリアムですが、他に2人の強力な王位請求者がいました。3人それぞれの王位請求理由と出自は次の通りです。

1人目:ハロルド・ゴッドウィンソン(イングランドのウェセックス伯)

王位請求理由

ハロルドの王位請求の主張は「エドワード証聖王が死の床で、ハロルド・ゴッドウィンソンに王位を託すことを遺言した」というものです。

出自

ハロルド・ゴッドウィンソンは、当時のイングランドで国王に次いで最も権力のある伯爵でした。

伯爵(Earl)…当時は伯爵より上の爵位が制定されていないため国王に次ぐ最高の爵位。またその権限や権力も絶大。ただしノルマンコンクエスト後は「伯爵」の権限は大幅に制限されるようになる。

1066年1月にエドワード証聖王が亡くなると、エドワード証聖王の義理の兄弟にあたるウェセックス伯ハロルド・ゴッドウィンソン(Harold Godwinson)が、賢人会議で選出されて戴冠しました。

関連記事ハロルド・ゴドウィンソン(Harold Godwinson)

ハロルドの戴冠(13世紀の画)
出典 Wikimedia Commons

2人目:ハラルド・ハルドラダ(ノルウェー王ハーラル3世)

王位請求理由

ハラルド・ハルドラダの王位継請求の主張は「イングランドは、クヌート大王の時代から北欧の支配域である」というものでした。クヌート大王はかつてデンマーク、ノルウェー、イングランドを支配下におさめて3国の国王として君臨した人物です。

出自

ハラルド・ハルドラダ(Harald Hardrada)は、ノルウェー王ハーラル3世です。ハロルド・ゴッドウィンソンの王位継承に納得せず、自らのイングランド王位を主張しました。1066年9月にイングランド北部から侵攻し、ひとまずはフルフォードの戦い(Battle of Fulford)で勝利をおさめます。

しかしイングランド王ハロルド率いる軍が、スタンフォードブリッジの戦い(Battle of Stamford Bridge)でノルウェー王の軍を破りました。ハラルド・ハルドラダはこの戦いで命を落とします。

スタンフォードブリッジの戦い(13世紀の画)
出典 Wikimedia Commons

3人目:ウィリアム(フランスのノルマンディ公爵)

王位請求理由

ウィリアムの王位請求の主張は「エドワード証聖王はかつてノルマンディに暮らしていたころに、ウィリアムに王位継承を約束した(1051)」というものです。イングランドにデンマーク系の国王が君臨していた時代、王子だったエドワードは母方の実家であるノルマンディで亡命生活をおくっていました。

出自

ノルマンディ公爵家は、バイキングのロロを祖先とする家系です。911年に西フランク王から領土と公爵位を授かり、以後フランスの貴族としてノルマンディに定着しました。

ウィリアムはエドワード証聖王の遠戚にもあたります。また王位継承の主張にあたって、ローマ教皇を味方につけていました。

1066年10月、ノルマンディ公ウィリアムはイングランド南部から上陸します。

ウィリアムは、フランスのノルマンディ(Normans)、ブルターニュ(Bretons)、フランダース(Flemish)、その他の各地(French provinces)の人々から成る軍を編成してイングランドに侵攻しました。

国王ハロルドの軍は、ウィリアムの侵攻を防ぐために急ぎ南へ引き返しますが、このとき多くの兵を北部に置いてゆきました。

10月14日、ヘイスティングスの戦い(Battle of Hastings)に、ノルマンディ公ウィリアムが勝利します。破れた国王ハロルドは、命を落としました。

関連記事ウィリアム1世(William the Conqueror)

バイユーのタペストリーに描かれたヘイスティングスの戦い:イングランド王ハロルド・ゴッドウィンソン味方の兄弟の落命場面
出典 Wikimedia Commons

ウィリアム征服王の治世

抵抗勢力を制圧し貴族層を入れ替える徹底した征服

ウィリアムの主なライバルこそいなくなったものの、イングランドにはウィリアムに抵抗する勢力も多く、ウィリアムはこの制圧に数年を費やしました。ウィリアムがイングランド国王としての地位を確実なものにできたのは1072年です。ウィリアムは、抵抗していたイングランド貴族の土地を没収しました。また、いくらかの貴族はみずから亡命しました。

ウィリアムは征服した王国を統治するために、臣下に土地を与え、各地に軍事拠点となる要塞を築き、イングランドおよびウェールズの一部の国土大調査をおこなって、これをドームズデイブック(Domesday Book)として知られる台帳に記録しました。

ドームズデーブック(20世紀の画)
出典 Wikimedia Commons

政治と社会の変化

ウィリアムはノルマン流の朝廷や政府をイングランドにもたらしました。当然ながらノルマン人の言語も持ち込まれました。そのためノルマンコンクスト直後のイングランドの上流階級では、ノルマン=フランス語が話されていました。

国王直々の封土制を採用したことから、貴族層の在り方も変わりました。農民や農村の暮らしにも、すこしずつ変化がおよびました。しかし政治体制についての変更は少なく、おおむねアングロサクソン時代のものを引き継ぎました。

グレイトおよびリトルドームズデーブックに記されたカウンティ(7色分け)
出典 Wikimedia Commons

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参考
Norman Conquest

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