ノルマンコンクエスト:ヘイスティングスの戦い

ノルマンコンクエスト:ヘイスティングスの戦い

1066年、ノルマンディ公爵ウィリアムがイングランドに侵攻し、ヘイスティングスの戦いにおいて、国王ハロルドを破りました。

※ノルマンディ公爵家…911年に西フランク王から領土(Normandy)と公爵位を授かったバイキングのロロを祖先とする家系。
※ウィリアム…フランス語読みではギヨーム。

ウィリアムは1066年のクリスマスにイングランド王として戴冠し「ウィリアム征服王(William the Conqueror)」と呼ばれることになります。またこの出来事をノルマンコンクスト(Norman Conquest)と呼びます。

この征服は、ノルマン人によって国土が審査され再配布され貴族層が入れ替わるという前代未聞の征服となりました。イングランドの歴史のみならず、ヨーロッパ史においても重要な出来事です。

19世紀に描かれたノルマン人の衣装(1000-1100)
出典 Wikimedia Commons

1066年:王位争奪戦の結果、ノルマン人に征服される

アルフレド大王の直系にあたるエドワード証聖王には子供がありませんでした。国王が崩御すると、3人の王位争奪戦が起こりました。

  • 1人目:ウェセックス伯ハロルド・ゴッドウィンソン
  • 2人目:ノルウェー王ハラルド・ハルドラダ
  • 3人目:ノルマンディ公ウィリアム

※3人…このほか、じつはアルフレド大王の直系にあたるエドガー(Edgar)が賢人会議によって候補に挙げられましたが、戴冠することはありませんでした。

まずウェセックス伯ハロルド・ゴッドウィンソンが戴冠

ハロルド・ゴッドウィンソンは、当時のイングランドで国王に次いで最も権力のあるエールでした。

1066年1月にエドワード証聖王が亡くなると、義理の兄弟にあたるウェセックス伯ハロルド・ゴッドウィンソン(Harold Godwinson)が戴冠しました。

ハロルドの王位主張

ハロルドの王位継承の主張は「エドワード証聖王が死の床で、ハロルド・ゴッドウィンソンに王位を託すことを遺言した」というものです。

ハロルドの戴冠(13世紀の画)
出典 Wikimedia Commons

ノルウェー王ハラルド・ハルドラダが自身の王位継承を主張

ノルウェー王ハラルド・ハルドラダ(Harald Hardrada)は、ハロルド・ゴッドウィンソンの王位継承に納得せず、自らのイングランド王位を主張しました。1066年9月にイングランド北部から侵攻し、フルフォードの戦い(Battle of Fulford)で勝利をおさめます。

ハラルド・ハルドラダの王位主張

ハラルド・ハルドラダの王位継承権の主張は「イングランドはクヌート大王の時代から北欧の支配域である」というものでした。

しかしイングランド王ハロルド率いる軍は、スタンフォードブリッジの戦い(Battle of Stamford Bridge)でノルウェー王の軍を破ります。ハラルド・ハルドラダはこの戦いで命を落としました。

スタンフォードブリッジの戦い(13世紀の画)
出典 Wikimedia Commons

南からノルマンディ公ウィリアムが侵略し勝利

間をおかずして10月、こんどはイングランド南部からノルマンディ公ウィリアムが上陸し侵攻しました。ウィリアムはエドワード証聖王の遠戚にあたります。また教皇を味方につけていました。

ウィリアムの王位主張

ウィリアムの王位継承権の主張は「エドワード証聖王はかつてノルマンディに暮らしていたころに、ウィリアムに王位継承を約束した(1051)」というものです。

ウィリアムは、フランスのノルマンディ(Normans)、ブルターニュ(Bretons)、フランダース(Flemish)、その他の各地(French provinces)の人々から成る軍を編成していました。

国王ハロルドの軍は、ウィリアムの侵攻を防ぐために急ぎ南へ引き返しますが、このとき多くの兵を北部に置いてゆきました。

10月14日、ヘイスティングスの戦い(Battle of Hastings)において、国王ハロルドはノルマンディ公ウィリアムに破れて、命を落としました。

バイユーのタペストリーに描かれたヘイスティングスの戦い:イングランド王ハロルド・ゴッドウィンソン味方の兄弟の落命場面
出典 Wikimedia Commons

ヘイスティングスの戦い後のイングランド

抵抗勢力を制圧し貴族層を入れ替える徹底した征服

ウィリアムの主なライバルこそいなくなったものの、イングランドにはウィリアムに抵抗する勢力も多く、ウィリアムはこの制圧に数年を費やしました。ウィリアムがイングランド国王としての地位を確実なものにできたのは1072年です。ウィリアムは、抵抗していたイングランド貴族の土地を没収しました。また、いくらかの貴族はみずから亡命しました。

ウィリアムは、征服した王国を統治するために、家臣に土地を与え、各地に軍事拠点の要塞を建て、イングランドおよびウェールズの一部の国土大調査をおこなって、これをドームズデイブック(Domesday Book)として知られる台帳に記録しました。

ドームズデーブック(20世紀の画)
出典 Wikimedia Commons

  関連リンク  【 6月25日頃  公開 】  ノルマンコンクエスト: イングランド完全征服までの道のり

政治と社会の変化

このほか、ウィリアムはノルマン流の朝廷や政府をイングランドにもたらし、また当然ながら彼らの言語も持ち込まれました。つまりノルマンコンクスト直後のイングランドの上流階級では、ノルマン=フランス語が話されていたのです。

国王直々の封土制を採用したことから、貴族層の在り方も変わりました。農民や農村の暮らしにも、すこしずつ変化がおよびました。しかし政治体制についての変更は少なく、おおむねアングロサクソン時代のものを引き継ぎました。

グレイトおよびリトルドームズデーブックに記されたカウンティ(7色分け)
出典 Wikimedia Commons

  関連リンク  【 6月28日頃  公開 】  ノルマンコンクスト:ノルマン人がイングランドに建てた城

  関連リンク   アングロサクソン人の社会

王位継承を主張した3人の背景

ウェセックス伯ハロルド・ゴッドウィンソン、ノルウェー王ハラルド・ハルドラダ、ノルマンディ公ウィリアム…この3人には、それぞれイングランド王位を主張しうる根拠、あるいは、主張したくなる理由がありました。

エドワード証聖王の崩御からおよそ50年前、イングランドにはデーン人(バイキング)のクヌート大王が君臨していました。3人の王位継承争いの発端をさぐると、おおむねクヌート大王の時代の出来事に起因しています。すこし複雑ですが、だからこそ面白いとも言える背景を、次のリンク先にまとめました。

1066年3人の王位争奪戦:クヌート大王時代にさかのぼる発端
1066年3人の王位争奪戦:クヌート大王時代にさかのぼる発端
1066年、アングロサクソン系の国王エドワード証聖王が子供のないまま没したとき、3人の人物がイングランドの王位を狙っていました。1人目は、アングロ=ノルマンのウ.....

参考
Norman Conquest

ノルマンコンクエスト: イングランド完全征服までの道のり
6月25日頃 公開:ノルマンコンクエスト: イングランド完全征服までの道のり
(📜ノート作成中)ウィリアムの主なライバルこそいなくなったものの、イングランドにはウィリアムに抵抗する勢力も多く、ウィリアムはこの制圧に数年を費やしま.....
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1100年に三男ウィリアムの死をうけて、ヘンリーがイングランド王国を継承することになりました。すると翌年、イングランド王国を欲した長男ノルマンディ公爵ロバートが.....