リチャード2世(Richard of Bordeaux)
       

父であるエドワード黒太子が祖父王エドワード3世より先に亡くなっていたため、リチャード2世は10歳で即位することになりました。治世の前半は、摂政に代えて設置された評議会が補佐を務めました。

外交においては対仏戦(百年戦争)、内政においては農民一揆や、議会との確執に翻弄される治世でした。親政を開始してからは、平和と秩序を取り戻すべく尽力し一定の効果をあげます。

しかしある時を境に一変し「専制政治」を始めます。これに脅威を感じた貴族らによって、リチャード2世は廃位させられました。

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リチャード2世(Richard of Bordeaux

リチャード2世
出典 Wikimedia Commons
治世1377年6月22日-1399年9月29日(22年100日)
継承権エドワード3世の孫
生没1367年1月6日:場所 Bordeaux
1400年2月14日(33歳):場所 Pontefract Castle
家系プランタジネット家(Plantagenet
父母Edward the Black PrinceJoan of Kent
結婚Anne of Bohemia(1382年)
Isabella of Valois(1396年)
子供
埋葬Kings LangleyHertfordshire
イングランド国王リチャード2世

年表

1377リチャード2世、祖父を継いで10歳でイングランド国王に即位
叔父のランカスター公ジョンやグロスター公トマスが実権を握る
1380ジョン・ウィクリフ( John Wycliffe )が、ラテン語で書かれた新約聖書の英語訳に取り掛かる
1380人頭税( Poll Tax )が課せられる
1381人頭税が引き金となり農民一揆が起こる
ワット・タイラーとジョン・ボール( John Ball )がロンドンに進軍
1382リチャード2世みずから人頭税の廃止を約束するも、反乱おさまらず、リーダーらは捕らえられ処刑される
1382ウィカムのウィリアム( William of Wykeham )がウィンチェスター・カレッジ( Winchester College )を創設
1387グロスター公の率いる訴追派貴族( Lords Appellant )が政権を握る
1388年非情議会においてイングランドリチャード2世の側近を大逆罪で訴追したイングランド貴族たちを指す
1388オッタバーンの戦い( Battle of Otterburn )でスコットランド人がヘンリー・パーシー( Hotspur )を破る
1389リチャード2世、親政を開始:ウィカムのウィリアムが、大法官( Lord Chancellor )に任じられる
1394リチャード2世、イングランド軍を率いてアイルランドの再征服に乗り出す
1396リチャード2世、フランス国王の娘イサベラを妃に迎えて、のち28年の和平条約をむすぶ
1397リチャード2世、追訴派貴族に報復:ヘンリー・ボーリングブローク(のちのヘンリー4世 / Henry Bolingbroke )が亡命
1398リチャード・ウィッティントン( Richard Whittington )がロンドン市長( Lord Mayor of London )になる
1399グロスター公爵ジョン・オブ・ゴーント死去し、リチャード2世が遺産と爵位を没収(=ヘンリーの継承権を剥奪)
1399リチャード2世がアイルランド遠征で不在中に、ヘンリー(グロスター公)が率いてリチャード2世を廃位:ヘンリー自身が王位に就く
年表:イングランド国王リチャード2世の治世

おもなできごと

10歳で即位、摂政を置かず評議会を設置

リチャードの父エドワード(黒太子 / Edward the Black Prince )は1376年に亡くなっていました。このため祖父エドワード3世が亡くなった1337年、リチャードは10歳という幼さでイングランド国王に即位することになります。

摂政は置かれず、代わりに評議会が設置されました。リチャード2世の叔父ジョン・オブ・ゴーント( ランカスター公 / John of Gaunt )に実権を握らせたくなかった議会の意向によるもので、評議会メンバにもジョン・オブ・ゴーントは含まれていません。

※エドワード3世の息子で黒太子の弟。リチャード2世の叔父で、ランカスター公爵。のちのヘンリー4世の父。

人頭税の導入と農民一揆(ワットタイラーの乱)

1340年代に流行した黒死病(ペスト / Black Death)によって、イングランドは2~3割の人口を失っていました。このため労働力が不足し、生産物(小麦や羊毛)の売行きも悪化していました。

そのようななか、フランスとの戦争(百年戦争 / Hundred Years’ War )によって軍事費は嵩むいっぽうでした。先王エドワード3世の治世に始まった対仏戦争は、滑り出しは良かったものの、1370年代からは財政を圧迫するようになっていました。

そこで、議会は「人頭税」の導入を決めました。当初は身分に応じた累進課税方式でしたが、1380年には収入の差を問わず一律化されます。農民が苦渋を強いられることになり、翌1381年に、農民一揆( Peasants’ Revolt )が勃発しました。この農民一揆は、ワットタイラーの乱とも呼ばれます。

※議会…地主と貴族で構成される(庶民院/貴族院という名称がもちいられるのは16世紀以降)。

暴動の波はイングランド東南部から北部へと波及したあと、鎮圧されました。反乱の指導者たちは殺害または処刑されました。

当時14歳だったリチャード2世が、これまでの政治や農民一揆の鎮圧にどれほど関与したかはわかりません。ただ、国王自身がワット・タイラーと面会の場を持ち、一旦は要求を受け入れたことが記録されているそうです。

農民一揆(ワット・タイラーの乱)

1381年5月末、エセックスのブレントウッド( Brentwood )で、官僚が未払いの人頭税を徴収しようとしたとき、暴動が発生しました。この暴動はあっという間に南東部全体に波及し、職人や村の役人も抗議に加わりました。主な要求は「減税」「農奴の解放」「高官の解任」でした。

※農奴(不自由農民 / Serfdom)…封建社会における最下層の人びと。労役による債務返済。自由が制限され奴隷に近い扱い。

この騒ぎに呼応して、ケント( Kent )の人びとも蜂起しロンドンに乗り込みました。反乱勢はロンドン塔に入城すると、数名の高官や役人を殺害しました。騒動はオックスフォードや、さらに北部にも飛び火して、官僚と庶民の多くが命を落としました。

1386年議会:議員が寵臣を弾劾

リチャード2世の評判はよくありませんでした。国王を利用して私利私欲をむさぼっているとされる「取り巻きたち」を、気に入って重用していたからです。かつてエドワード2世()が行った「寵臣政治」を思い起こさせるものでした。諸侯から歓迎されない結婚( Anne of Bohemia )や、スコットランド侵攻の失敗なども、諸侯の不満を助長していました。

1386年、リチャード2世が資金調達の目的で開いたとされる議会で、議員たちは「尚書部長官 マイケル・ド・ラ・ポール( Michael de la Pole ) らの解任」を要求し、弾劾も行いました。

※議会議員はおそらく、グロスター公( Thomas )とアランデル伯( Richard_Fitzalan )の後ろ盾を得ていた。

※マイケル・ド・ラ・ポールは、リチャード2世のお気に入りの1人。国王によってサフォーク伯に叙せられた。商家の出身なので由緒ある上流社会の人びとは快く思わなかった。おなじく寵臣のひとりロバート・ド・ヴィアー(Robert de Vere, Earl of Oxford)は、アイルランド公に昇格。同時代の年代記者の記述から国王との恋仲説も浮上している。

これに対してリチャード2世は「誰ひとりとして、議会の要求による追放などしない」と言い返したと伝えられています(しかし廃位の危機を感じたとき、屈服しました)。国王の家政を取り仕切るメンバは、議会によって選定され入れ替えられました。この議会はのちに「素晴らしき議会( Wonderful_Parliament )」と名付けられました。

宮廷派貴族と追訴派貴族

1386年議会の後、諸侯は2派にわかれました。「リチャード2世派(宮廷派)」と「追訴派(改革派 / Lords Appellant )」です。

1387年、追訴派が実権をにぎりました。リチャード2世は、寵臣ニコラス・ブレンブレ( Nicholas Brembre )とロバート・トレジリアン( Robert Tresilian )が処刑されるのを止めることができませんでした。1388年議会( Merciless Parliament )においては、亡命中のロバート・ド・ヴィアーが不在裁判で死刑を宣告されています。

親政を開始、フランスと和平条約、輝かしい時代

1388年会議( Merciless Parliament )のあと、リチャード2世は権威を取り戻すことに成功します。

追訴派(改革派)が進めた過激な対仏政策が実を結ばず、イングランド北部がスコットランドの侵攻を受けるなどして失敗したからです。

すでに21歳を迎えていたリチャード2世は、親政の開始を宣言します。外交においてはフランスとの和平を模索すること、内政においては重税に苦しむ人々に耳を傾け減税することを約束しました。リチャード2世は、かつて彼の寵臣を処刑した人々とさえも和解しました。

イングランドに平和が訪れました。フランスとの和平交渉では条件の擦り合わせが難航しましたが、1396年に28年間の和平を結ぶことに成功します。この一環として、リチャード2世はフランス国王シャルル6世の娘イサベラと婚約しました。

※イサベラは当時6歳の少女。とうぶん世継ぎを望めないことから、不安を覚える諸侯もいた。なお、先妃アンは2年前に28歳で亡くなっている。子はなかった。

この頃が、リチャード2世の治世において最も輝かしい時代でした。

廃位と死

1397年、リチャード2世の様子が一転します。リチャード2世による、かつての追訴派貴族への復讐がはじまりました。その多くは処刑されるか、あるいは亡命しました。

※追訴派貴族…ヘンリー・ボーリングブロークをはじめ、リチャード2世の寵臣を死刑に追いやった人々

リチャード2世は「国王大権」を唱えていました。この時期は「リチャード2世の専制政治期」と解説されることもあります。またその言動から、パーソナリティ障害を抱えていたとする説もあります。

※国王大権( Royal prerogative )…同国において君主が独占する大権として認められる、慣習上の権限、特権および免除の集合。

※パーソナリティ障害…詳しくは⇒厚生労働省:パーソナリティ障害

1399年、ランカスター公爵ジョン・オブ・ゴーント( John of Gaunt )が亡くなりました。その広大な領土と富と爵位は、息子のヘンリー・ボーリングブローク( Henry Bolingbroke )に継がれるはずでした。しかしここでリチャード2世が、同家の領土や爵位の没収を言い渡します。

これに納得がいかないヘンリーは、亡命先から小さな軍をひきつれてイングランドに上陸しました。イングランドではヘンリーに味方する貴族が多く、軍兵の数は増えました。国王の独断による領土の没収は、他の貴族にとっても脅威だったのです。

多少の抵抗は受けたものの、ヘンリーはリチャード2世の廃位に成功します。そして自らが戴冠し、ヘンリー4世として即位しました。ヘンリー4世はリチャード2世の従兄弟にあたり、共にエドワード3世の血をひいています。

リチャード2世は幽閉され、飢えて亡くなったとする説がありますが、死に至った真相は謎のままです。

地図

ポンテフラクト城

廃位させられたリチャード2世は、1399年8月にロンドン塔に幽閉され、同年12月に「ポンテフラクト城( Pontefract Castle )」に移送されました。ここで、おそらくは飢えて亡くなったと考えられています。


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参考
Kings and Queens of England & Britain
Richard_II_of_England
kings-and-queens-1066
Richard II and the Peasant’s Revolt
King Richard II (1377 – 1399)
A Really Useful Guide to Kings and Queens of England
物語イギリスの歴史(上)

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