ローマ支配期
支配下域のローマ化
のちのイングランドに相当するエリアに暮らしていた部族は、ローマの支配下にあった時代にさまざまの面においてローマ化されていました。建築技術や交易方法、人々の暮らしなどです。
ブリテン島※で従事したローマ兵や士官のなかには、任期を終えてからもブリテン島に居残った人々がいました。彼らは、ブリテンの女性と結婚し子供をもうけ、子供はローマとブリテンの文化の中で育ちました。
※ ブリテン島 … ブリテン諸島のなかで最も大きい島。イングランド、スコットランド、ウェールズが位置する島。グレートブリテンとも呼ばれる。
ローマ軍はその属州から傭兵を雇い、予備の部隊を編成していました。ローマに抗って敗北した部族は、命を奪われる代わりに辺境の地の予備部隊としてスカウトされることもありました。サルマタイ※もそうした部族のひとつで、この部隊に属した英雄(Lucius Artorius Castus)を「アーサー王伝説」の起源と考える人もいます。
※ サルマタイ族… BC 4世紀~AD 4世紀頃に、ウラル南部から黒海北岸にかけて活動したイラン系遊牧民。巧みな騎馬戦術で知られていた。ローマ時代に少しづつ西方へ移動したらしい。
ローマ撤退後の混乱期
ローマ支配の末期のブリタンニアは、三方の外敵に苦しみました。西からアイリッシュ、北からピクト人、そして南東からは北海を渡ってきたゲルマン語諸族です。
※ブリタンニア … おおむね現イングランドと現ウェールズに相当するエリア
※アイリッシュ…アイルランドの部族。ローマ人からは”スコッティ”と呼ばれていた。
※ピクト人…現スコットランドに存在した諸部族
※ゲルマン語諸族…現北ドイツ、現南デンマーク、現オランダ地域から来たアングロ人、サクソン人、ジュート人など
周辺民族の侵攻にあえぐローマの属州ブリタンニアは、ローマに援軍を求めます。しかし410年、ローマ皇帝ホノリウス(Honorius)から、援軍を送らない旨が伝わりました。ローマ帝国そのものが、領土を拡大しすぎたために起きた内乱と外敵の侵入の対応に追われて、辺境のブリタンニアまで手がまわらなかったのです。
当時のイングランドはゲール語で「Sasana」と呼ばれていたらしい。
ローマ侵攻以前のケルト的な文化が復活
ローマが撤退した410年以降、旧支配下域はローマの保護を受けられなくなり、混乱の時代を迎えます。この時代の文献はほとんど残っていません。市は崩壊し、建物には石よりも木が使われるようになり、ローマ侵攻以前のケルト的なヒルフォート(Hillfort)が目立つようになりました。
ローマの通貨は流通しつづけましたが、新しい通貨が発行されることはありませんでした。大陸との貿易は続けられ、必需品や贅沢品が取り交わされました。ローマ的な秩序は5世紀の前半にはかいま見られたようですが、後半になるとほぼすっかり ”ブリトン人※のブリテン” になったようです。
※ ブリトン人…現イングランドと現ウェールズ地域に先住していたケルト系部族や人々の総称。文脈によって北のピクト人を含む場合と含まない場合がある。
ローマ支配時代に影を潜めていたケルト文化や風俗が、かなりの程度、表に現れてきました。小集団ごとにリーダーをもつ部族制が復活し、地域ごとに異なる制度が用いられて一体性がなくなり、部族間の抗争も避けられないものになりました。
参考
Sub-Roman Britain
The ‘Dark’ Ages: From the Sack of Rome to Hastings
Lucius Artorius Castus