ローマ撤退後のブリテン島(3)アングロ-サクソン人の侵入と定着

ローマ撤退後のブリテン島(3)アングロ-サクソン人の侵入と定着

紀元500年頃までに、おおくの侵入者がブリテンに定着するようになっていました。ブリテンの西にはアイリッシュ系(Dál Riata など)が定着し、ハンバー川(Humber)からワイト島(Isle of Wight)を結ぶ線の東側にはゲルマン系諸族のアングロ人、サクソン人、ジュート人(Angles / Saxons / Jutes)が定着しました。

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アングロ-サクソン人とは

デンマーク・北ドイツ・オランダまたは北欧に相当する地域から来てブリテン島に定着した人々

アングロ-サクソン人は、現在のデンマークや北ドイツやオランダに相当する地域から、北海を南へ渡ってきた人々でした。

アングロ-サクソン人のブリテン島への侵入は、”侵略 / 侵攻” とも云われてきました。しかし、当初の定着はどちらかというと、”移住” に近いものだったようです。大規模な征服を目的とした計画的な侵略ではなかったのです。その武力を買われ、先住民族との交渉もあったのかもしれません。

紀元500年頃まで
赤:アングル人 青:サクソン人
出典

アングロ・サクソンが陣取った沿岸地域は、人口が増えました。定住を始めた人々の子供であったり、または新たに到着した故郷の家族や仲間であったりました。彼らはさらなる土地を求めて内陸に目を向けます。ブリトン人との抗争は避けられないものになりました。

アングロ・サクソン人はブリトン系部族を征服するなどして内部へ侵攻しました。追われたブリトン人は現ウェールズや現スコットランドに相当する地域へ後退しました。

6世紀には北欧からの移民が海を渡ってきた可能性
出典

アングロサクソン人の定着の過程

じつはアングロサクソン人が定着にいたった過程はくわしくわかっていません。この時代(6世紀)を生きた人が遺した唯一の文献史料は、『ブリトン人の没落』De Excidio et Conquestu Britanniae)です。ブリトン人(先住民)のキリスト教修道僧ギルダスGildas)が記したものです。しかし詩文調のため詳細は記されておらず、またギルダスはアングロサクソン人の侵入を、神の罰によるものと捉えていました。

ブリテン島に定着したアングロサクソン人は王国を建て、互いに覇権を争いました。そうするうちに「最上の王(ブレトワルダ / bretwalda」の概念が生まれました。

ベーダBede)という修道僧が8世紀に記した『イングランド教会史Ecclesiastical History of the English People)』では、西サセックスのエール(Ælle 治世 c. 477 – c. 514)の名が、最初の「最上の王」として挙げられています。

※ブレトワルダ…「最上の王」の概念はあったようだが、ブレトワルダという言葉自体は9世紀に編纂された『アングロサクソン年代記(Anglo-Saxon Chronicle)』に初めて登場。

実在した王ヴォーティガン、サクソン人に裏切られる物語

南部のブリトン人には、サクソン人以外に北のピクト人という敵もいました。ブリトン人は、アングロ・サクソン人に土地を与えて利用する手段をとっていた可能性があります。ローマ人に倣っての案なのか、みずからの考案なのかは不明です。

当時の記録はほとんど残っていないため、後世の(ほぼフィクションで鵜呑みにできない)文献に頼ることになりますが、どうやらブリトンに数いる支配者のひとりが、サクソン人に土地を与える代わりに軍事的支援を得る約束を取り交わしたようです。彼の名は、ヴォーティガン(Vortigern)だと云われています。

449年にヴォーティガンは、サクソン人のリーダーである ヘンギスト と ホルサ(Hengist and Horsa)と交渉し、ピクト人との戦いついて協力の約束を取りつけました。ところが、彼らはヴォーティガンを裏切りました(Treachery of the Long Knives)。

このストーリーも大部分が後世の ”創作” だと考えられています。しかし、アングロ・サクソン人の戦力を評価して、土地を与えて雇い入れるような取引は、どこかで実際にあったと考えられ、そうして定着したアングロ・サクソン人が仲間を呼び寄せるなどして増えた可能性があります。

ブリテン島に到着するヘンギストとホルサ
1605年リチャード・ローランド画
出典

最上の王、ヴォーティガン

ヴォーティガンは、”Gwrtheyrn” と綴られてウェールズの古い文献にも登場します。また僧侶ギルダス(Gildas)が6世紀にまとめた文献によると、ヴォーディガンは自らを「ブリトン人の最上の王」と名乗っていたようです。しかしこれは ”ブリトンの統一” をほのめかすものではないようで、また「最上の王」であることがどれほど認知されていたかもわからないそうです。

ヴォーティガンにまつわる物語は、『ブリトン人の歴史(Historia Brittonum / C.829)』や『ブリタニア列王史(Historia Regum Britanniae / (C.1136))』などに詳しく書かれ、アーサー王伝説の序章ともなっています。ヴォーディガンが実在した可能性は高いですが、彼をとりまく出来事や彼の生涯は、後世の創作であると考えられています。

ドラゴンの戦いを観るヴォーティガン
15世紀の画
出典

「ベイドン丘の戦い」アーサー王伝説を生んだブリトン人の大勝利

後世の文献に登場する ”アーサー”も、非現実的な戦闘力をいかんなく発揮しているため、大部分が創作だと考えられています。アーサーのモデルと考えられる何人かのなかに、アンブロシウス・アウレリアヌス(Ambrosius Aurelianus)がいます。彼はローマ人の血をひくブリトン人でした。

アンブロシウス・アウレリアヌスは、ベイドン丘の戦い(Battle of Badon Hill)でサクソン人を激しく打ち負かしたと伝えられています。490年~500年頃と推定されますが、場所も年代も定かではありません。しかし、サクソン人の脅威がすこしおさまった時期があり、このようなブリトン人の大勝利がどこかの段階であったことは確かなようです。

ベイドン丘の戦いで騎馬隊を率いるアーサー王
1898年 R. H. Russell
出典

6世紀の内陸ではアングロ-サクソンの王国が覇権を争う

ブリトン人が大勝利をおさめた戦いもあったものの、6世紀の内陸にはアングロ-サクソン人の王国がいくつも建てられ、互いに覇権を争うようになりました。「アングロ-サクソン七王国」と総称され、中世初期イギリス史の主要な部分を担うことになります。

赤文字:アングロサクソン人の王国
出典

参考
Sub-Roman Britain
The ‘Dark’ Ages: From the Sack of Rome to Hastings
Vortigern

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