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エルフウェルド(Ælfweard of Wessex)

父王(エドワード長兄王)が没して間もなく、エルフウェルドもなくなりました。父王とおなじウィンチェスターに埋葬されたと『アングロサクソン年代記(Anglo-Saxon Chronicle)』に記されています。王位に就いたことは明示されていません。しかし12世紀に編纂された『Textus Roffensis』には、エルフウェルドが国王としてリストアップされているそうです。治世は4週間です。 王位に就いた期間があったかどうか、歴史家のあいだで見解が分かれています。

ノルマンコンクエスト: イングランド完全征服までの道のり

ヘイスティングスの戦いに勝利したノルマンディ公ウィリアムは、イングランド国王として戴冠しました。 王位を狙う主なライバルこそいなくなったものの、ウィリアムの支配に対する反乱がイングランド各地で起こりました。ウィリアムはこの制圧に数年を費やすことになります。 ウィリアムがイングランド国王としての地位を確実なものにできたのは、主な反乱の鎮圧を終えた1072年です。ウィリアムは、反乱を起こしたイングラン […]

1066年、もうひとりの候補者:アルフレド大王の直系エドガー・アシリングの人生

エドワード証聖王が亡くなり王位争奪戦の起こった1066年、エドガーが王位継承者として候補にあがりました。エドガーはアルフレド大王の直系にあたります。しかしおよそ14歳と若く、ほか3者※の強敵の出そろった時世には間がわるく戴冠することはありませんでした。ノルマンディ公ウィリアムがイングランドを征服すると、エドガーは反乱勢から擁立され、またスコットランドのマルカム3世の後ろ盾を得て、イングランド王位を主張しました。

オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)

クロムウェルはケンブリッジシャーのハンティンドン( Huntingdon )に、ジェントリ階級の息子として産まれました。1629年に議員になり、議会派(の独立派)としてイングランド内戦(ピューリタン革命)で活躍します。騎兵隊を率いて出世し、ニューモデル軍を率いる司令官の1人となり、「ネイズビーの戦い」で王党派を破って議会派を勝利に導きました。 敗戦したチャールズ1世との交渉は合意に至らず、またこの […]

【男性編】18世紀末~19世紀初頭の服装(摂政時代)

Beau Brummell は、ロンドン社交界のファッションを牽引したひとりです。当時のおしゃれな男性は彼を模倣しました。全ての男性が「ダンディ(dandy)」を目指したわけではありませんが、上流社会においてドレスコードは大切でした。

イギリス:4つの国から成る国

わたしたちが「イギリス」と呼んでいる国は、正式名称を「グレートブリテン王国および北アイルランド連合王国」といいます。4つの国が集まってできています。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドです。 国名の変遷について 長い歴史の中で最も強かったのがイングランドです。中世のイングランド国王がウェールズを征服して併合し(1283)、近世のイングランド国王はアイルランドの国王をも名乗るよう […]

産業革命:「飛び杼」の登場で需要を増す「糸」、ジェニー紡績機の登場

1764年もしくは1765年に、ジェームス・ハーグリーブスが「ジェニー紡績機」を開発しました。ひとりで一度に8本もしくはそれ以上のスプール(リール/糸巻棒)に糸をつむぐことができるようになり、産業革命における繊維業の重要な転換点のひとつに数えられています。ジェニー紡績機は1810年頃まで綿産業やファスチアン産業で広く一般的に使われました。以降はミュール紡績機が取って代わり、これが20世紀初頭まで活躍します。

アングロサクソン時代の文化

ラテン語と古英語 中世のヨーロッパではほとんどの書物がラテン語で書かれていました。しかし、ラテン語を理解できるのは、ほぼ聖職者だけでした。 このようなヨーロッパにおいて、イングランドは少し特異でした。書物に古英語も使われていたのです。古英語は多くのひとの話し言葉でした。 書物の多くは聖職者によって書かれたものだったので、必然的に宗教色の強いものが多くなります。しかし聖職者以外のひとが古英語で書いた […]

18世紀イギリス領アメリカのボストンで、兵士が大衆に発砲した事件

民間人と揉め事を起こしたひとりの護衛官が助けを求め、プレストン大尉率いる数人の兵士が援護に駆け付けました。見物に集まった大衆は兵士に雪玉や石を投げ、さらには大尉を棍棒で殴る者まであらわれました。大尉は発砲を命じませんでしたが、驚いた兵士らが発砲し始めました。弾は11人に当たり、3人は即死、8人が重軽傷を負い、このうち2人は怪我がもとで後ほど亡くなりました。

[詳しく]2世紀のイギリス

2世紀のイギリス南部は、ローマ帝国の支配下にあり属州ブリタンニアと呼ばれていました。おおよそ現在のスコットランドに相当する北部は征服されず、昔ながらの部族が暮らしていました。 イギリス(ブリタンニア)は、ローマ帝国最北の国境地帯でもあり、重要な地位を占めていたことから多くのローマ軍隊が駐留しました。イギリス(ブリタンニア)は外部からの攻撃を受けることが多かったため、ローマ帝国は防衛に尽力しました。 […]

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