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「ナイルの海戦」ナポレオンの計画をくじく要(かなめ)-フランス革命戦争

「ナイルの海戦」は、フランスとイギリスのあいだで、1798年8月1日に戦われた海戦です。ネルソンが率いる英国の艦隊が、フランス艦隊を駆逐し、ナポレオンの計画を阻止しました。 ナポレオンのエジプト侵攻の目的 ナポレオンはエジプト侵攻を計画していました。目的は「イギリスの貿易ルートを妨害すること」です。またインドのイギリス領に打撃を与えることも考えていました。ナポレオンはエジプト経由でイギリスの敵に援 […]

ウィリアム2世(William Rufus)

先王のウィリアム1世(征服王)には4人の息子がいました。上からロバート、リチャード、ウィリアム、ヘンリーです。長男ロバートはノルマンディ公爵領と爵位を継ぎ、次男リチャードは若くして亡くなっており、三男ウィリアムがイングランド王国と王位を継いでウィリアム2世となりました※。なお、四男のヘンリーには継承できる土地がなく、お金を相続しました。

ウィリアム1世(William the Conqueror)

ウィリアム1世(William the Conqueror) 治世 1066.12.25 – 1087.9.9(20年259日) 継承権 エドワード証聖王からの指名(1052)エドワード証聖王の母方の親戚イングランド征服による 生没 c.1028 – 1087.9.9(59歳) 家系 ノルマンディ家(House of Normandy) 父母 Robert the Magn […]

ヘンリー7世(Henry VII)

ヘンリー7世は、ウェールズのテューダー家出身の国王です。ランカスター傍系の母方を通じて、イングランド王エドワード3世の血を引いており、「ボズワースの戦い」でリチャード3世を討って王位に就きました。 ヘンリー7世の治世の始まりは、中世の終わり/近世の始まりとして位置づけられています。 婚姻を通じてイングランド内のヨーク派とランカスター派の融合を図り、ばら戦争に終止符を打ちました。両家の紋章を掛け合わ […]

アーサー王伝説が生まれた経緯:ローマ撤退後のブリテン島(2)

アーサー王は実在した王でしょうか。おそらく実在はせず、民間伝承から創作された架空の王だとするのが現在の歴史家による一般的な見解です。では、アーサー王の伝説はどのようにして生まれ、語り継がれてきたのでしょうか。現存する文献のなかで、アーサーの名が登場するもっとも古いものは9世紀の”歴史書”です。12世紀の”列王史”にさらに詳しく書かれ、すぐにアーサー王ロマンスとして物語化され、中世文学の核となりました。

1-5世紀のイギリス

紀元40年頃~410年頃まで、ブリテン島の南部はローマ帝国の属州だったので、この時代を「ローマン・ブリティッシュ時代」などと呼びます。ローマ人は、支配下に置いた地域と周辺諸島を「ブリタンニア」と呼びました。おなじころ、現在のアイルランドにあたる地域はゲール人が侵略して定住していました。 ローマ帝国の支配は、現在のスコットランドにあたる地域には及びませんでした。ローマは侵攻を試みますが謎の民族ピクト […]

ハロルド1世(Harold Harefoot)

ハロルドは、クヌート大王と前妻の息子です。クヌートと前妻の結婚はキリスト教に則ったものではなかったので、イングランドにおいてハロルドは婚外子(私生児)という扱いになります。クヌート大王が亡くなったとき、ハロルドはいちはやく自身の王位継承を主張しました。このころ正妻エマの息子であるハーデクヌーズは、デンマークの攻防戦で忙しくしていました。この隙にハロルドは正式にイングランド王位に就くことに成功しました。

ブリテン島の先史時代

イギリスの先史時代は、人類の渡来~紀元43年のローマ軍侵攻(ローマ皇帝クラディウスのブリタンニア遠征)までを指すことが多いです。 ~紀元前8000年 旧石器時代(Palaeolithic) 狩猟・採集を主とする生活 紀元前6500年頃 ヨーロッパ大陸と陸続きだったグレートブリテン島が、海面の上昇により大陸から切り離されて、島になる。 紀元前4000年頃 新石器時代(Neolithic) 狩猟・採集 […]

グレートブリテン王国の成立とハノーヴァー家への王位継承

1702年、ステュアート朝のアン女王( Anne, Queen of Great Britain )が戴冠します。ジェームズ2世の娘ですが、彼女の信仰は英国国教会でした。血筋についても信仰についても、心配ありませんでした。しかし後継ぎがないのは問題でした。嫡子はありましたが、1700年に11歳で世を去ったグロスター公ウィリアム( Prince William, Duke of Gloucester )を最後に、みな早世していたのです。

リージェンシー・ファッション-女性編-

18世紀末から19世紀初頭にかけて流行したスタイルを「エンパイアスタイル」などと呼びます。胸のすぐ下で絞ってバストを支え、スカートをながすスタイルです。ドレスのなかに下着(undergarments)、外にはガウン(gowns)や上着(outerwear)を重ね着しました。上着は、スペンサー(spencer)やペリーズ(pelisse)が人気でした。動画では、下着からコルセット、ドレス、ガウン、アウターまで、エンパイアドレスを実際に着る様子を、解説付きで見ることができます。

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