B.7 18世紀

4/5ページ

18世紀のイギリス(年表式)

18世紀のイギリスはいくつもの戦争に特徴づけられます。とくに対フランス戦です。同時に第一大英帝国と呼ばれるにいたる発展と衰退を経験し、19世紀をまえに第二大英帝国の基盤が築かれました。国内の社会が成長をみせ、経済的にも安定した時代でした。 扉絵:It was commissioned by the de facto first British Prime Minister, Sir Robert […]

アメリカ独立への序章「砂糖法」

1764年4月5日、「砂糖法案」がイギリスの議会を通過しました。当時、フランス領およびオランダ領の西インド諸島(カリブ海)から北米のイギリス領へ、砂糖と糖蜜の密輸貿易が行われていました。これを終わらせるために設けられたのが「砂糖法(Sugar Act)」です。イギリス政府は収入源の確保も必要でした。フレンチ・インディアン戦争の戦費をまかなうたため借金(公債)が嵩んでいたのです。アメリカの植民地人にとって不快だったのは、商船の取り締まりの厳しさでした。

カントリーハウス【サウスイースト編】

このページは、カントリーハウス【サウスイースト編】です。 ブレナム宮殿 Blenheim Palace 大部分が一般公開されています。 ブレナム宮殿はチャーチル家の拠点であるとともに、霊廟( mausoleum )でもあり、国定モニュメント( monument )でもあるユニークな建造物です。第二次大戦中に首相を務めたウィンストン・チャーチル( Sir Winston Churchill )の祖先 […]

ホイッグ党とトーリー党

トーリー党とホイッグ党は、17世紀の王政復古期ーチャールズ2世の時代ーにうまれた政党です。ジェームズ2世が親カトリック政策をはじめると、両派ともが一致してジェームズ2世を追放しました。名誉革命を経て、アン女王の崩御でふたたび生じた王位継承問題。ジェームズ2世の息子の王位継承権を支持したのがトーリーで、プロテスタント派のゲオルグ・ルートヴィヒを支持したのがホイッグです。ジョージ3世の時代に転機が…

産業革命の幕開け-ジョン・ケイが発明した「飛び杼」

18世紀も半ばになると、新しい手法が開発・導入され、イギリスそしてヨーロッパに広がります。この変化の過程で「工業化」が進みました。ある町や市に専用の工場が集約され、工業都市と呼ばれるようになります。1733年、ジョン・キー(John Kay)によって飛び杼(Flying shuttle)が発明されました。これは従来の手織り機に改良をくわえたもので、格段に効率があがりました。また一人で操作できるため、少ない労働者で生産できるようになりました。

18世紀イギリス領アメリカのボストンで、兵士が大衆に発砲した事件

民間人と揉め事を起こしたひとりの護衛官が助けを求め、プレストン大尉率いる数人の兵士が援護に駆け付けました。見物に集まった大衆は兵士に雪玉や石を投げ、さらには大尉を棍棒で殴る者まであらわれました。大尉は発砲を命じませんでしたが、驚いた兵士らが発砲し始めました。弾は11人に当たり、3人は即死、8人が重軽傷を負い、このうち2人は怪我がもとで後ほど亡くなりました。

リージェンシー・ファッション(摂政時代の装い)

18世紀末~19世紀初頭 フランス貴族をイメージさせる装いを避ける 18世紀末から19世紀初頭のヨーロッパおよび関連する国々のファッションは、18世紀初頭の重厚なコスチュームから解放されて、かろやかな装いが流行しました。というのもフランス革命のあおりで、フランス貴族のようないでたちで出歩くことを好む人がいなくなったからです。また、かつての衣装は社会的地位に左右されるものでしたが、19世紀を迎えるこ […]

「ボストン茶会事件」こぼれ話と事件の影響

「茶会事件」に、イギリス政府は厳しく応じました。1774年イギリス議会は「強制諸法(Coercive Acts)」と総称される懲罰的な一連の法を通過させます。マサチューセッツの自治権の剥奪し、ボストン港を封鎖しました。イギリス政府が布く様々の条令に対抗するため、13植民地は「第一次大陸会議」を招集します。

イングランドのカントリーハウス(1)成り立ちと建築様式の変化

カントリーハウスの建築様式は様々です。中世のものから、テューダー朝エリザベス時代の様式、あるいは後のゴシック様式やバロック様式、摂政時代に新築されたパッラディーオ様式、そこから少し時代を下ったビクトリアン様式などがあります。

ジョージ2世(George Augustus)

ジョージ2世は、ジョージ1世の唯一の嫡男です。父ジョージよりは、イギリス人らしいアイデンティティを備えていましたが、政治についてはやはり、ロバート・ウォルポールに依存せざるをえない状況でした。 ジョージ2世は1743年の「デッティンゲンの戦い」に参戦しました。歴代のイングランド国王のなかで、軍を率いて自らが参戦した最後の例です。 1745年には、ステュアート家を支持するジャコバイトが、チャールズ若 […]

1 4 5
++
?>