クヌート大王(Cnut the Great / Canute)
クヌートはスヴェンの息子で、デンマークの王子でした。父スヴェンはイングランドの征服に成功して、イングランド国王の地位についた人物です。ただし即位後まもなく亡くなり、王位はふたたび旧来のウェセックス家へと戻っていました。 クヌートはイングランドを征服してイングランド王位に就き、デンマーク王位を継承し、スコットランド王をしのぎ、ノルウェーを征服してノルウェー王にもなりました。その支配域は「クヌートの北海帝国」として知られています。
クヌートはスヴェンの息子で、デンマークの王子でした。父スヴェンはイングランドの征服に成功して、イングランド国王の地位についた人物です。ただし即位後まもなく亡くなり、王位はふたたび旧来のウェセックス家へと戻っていました。 クヌートはイングランドを征服してイングランド王位に就き、デンマーク王位を継承し、スコットランド王をしのぎ、ノルウェーを征服してノルウェー王にもなりました。その支配域は「クヌートの北海帝国」として知られています。
アーサー王は実在した王でしょうか。おそらく実在はせず、民間伝承から創作された架空の王だとするのが現在の歴史家による一般的な見解です。では、アーサー王の伝説はどのようにして生まれ、語り継がれてきたのでしょうか。現存する文献のなかで、アーサーの名が登場するもっとも古いものは9世紀の”歴史書”です。12世紀の”列王史”にさらに詳しく書かれ、すぐにアーサー王ロマンスとして物語化され、中世文学の核となりました。
父王(エドワード長兄王)が没して間もなく、エルフウェルドもなくなりました。父王とおなじウィンチェスターに埋葬されたと『アングロサクソン年代記(Anglo-Saxon Chronicle)』に記されています。王位に就いたことは明示されていません。しかし12世紀に編纂された『Textus Roffensis』には、エルフウェルドが国王としてリストアップされているそうです。治世は4週間です。 王位に就いた期間があったかどうか、歴史家のあいだで見解が分かれています。
エドワードは、12-13歳で即位しました。エドワードは先王エドガーの長男でしたが、父王からは継承者としての指名はなく、異母弟エゼルレッド(Æthelred)と王位を争ったとされています。 エドワードは、カンタベリー大司教ダンスタン(Dunstan)およびヨーク司教オズワルド(Oswald)によって戴冠されました。しかし978年、およそ16歳のエドワードは、コーフ城(Corfe Castle)で暗殺されます。
ブリテン島各地に乱立したアングロサクソン人の王国は互いに争い、7世紀初頭には上述の七つの王国が主要な王国として台頭していました。7世紀~8世紀を通じてさらに淘汰され、イーストアングリア王国、ノーザンブリア王国、マーシア王国、ウェセックス王国の4つが主要な王国として順に覇権を握ります。9世紀~10世紀にかけてはバイキングの侵攻に苦しみました。このなかで生き残ったウェセックス王国が覇権を握ってバイキングに反撃をしかけます。
ラテン語と古英語 中世のヨーロッパではほとんどの書物がラテン語で書かれていました。しかし、ラテン語を理解できるのは、ほぼ聖職者だけでした。 このようなヨーロッパにおいて、イングランドは少し特異でした。書物に古英語も使われていたのです。古英語は多くのひとの話し言葉でした。 書物の多くは聖職者によって書かれたものだったので、必然的に宗教色の強いものが多くなります。しかし聖職者以外のひとが古英語で書いた […]
エゼルレッドは先々王エドガーの息子で、暗殺された先王エドワードの異母弟です。即位したのは10歳のときでした。 エゼルレッドは北欧人の来襲に対し、筋の通った抵抗を示しませんでした。これがエゼルレッドのニックネーム「unready(準備不足)」の由来である、とよく言われます。じつは古英語でのスペルは少し異なり、意味もかなり違うのですが、残念ながら「unready(準備不足)」がしっくりくる治世となってしまいました。
エドレッドは、エドワード長兄王と三番目の妃の息子です。実兄エドマンド1世をついで王位に就きました。 「北欧人(バイキング)の打倒」は、もはやイングランド王家の宿命ともなっていました。エドレッドは、954年、ノーザンブリアを支配していた北欧系の王エリック(Eric Bloodaxe)の追放に成功しました。エドレッドは胃腸に深刻な病気を抱えており、これが重症化して命を落とします。30代前半であったと考えられ、結婚はしておらず、子供もありませんでした。
ノルマンディで四半世紀を過ごしてきたエドワードは、即位すると、廷臣や高位の聖職にノルマンディの人びとを就任させ、身の安全をはかりました。イングランドではクヌートの時代に台頭したウェセックス伯ゴッドウィン家が、政治的な権力を握りました。
衣服の主流はチュニック( tunic )でした。富裕層が着るチェニックは丈が長く、色鮮やかで高品質な布が、その豊かさを象徴していました。素材はシルクや、シルクで縁取られた布でした。農民や兵士のチュニックは膝丈もしくは膝上丈でした。 一般人と、重装備の兵の例です。