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政治

18世紀~19世紀の陸路

これまでの穴だらけ泥だらけの道に比べて、修繕された有料道路は快適でした。旅人や商人は「有料」の「価値」を認めはじめました。 道路のコンディションがよくなると、馬に背負わせる荷物の量を増やすこともできます。18世紀の終わりには、馬は1頭あたり 3,000kg 以上の荷を運んだそうです。 有料道路の運営と管理は民間団体に信託されました。ターンパイクトラスト(turnpike trusts)といいます。

アメリカ革命のながれ(2/2)

アメリカ革命(独立)戦争は「英領北アメリカの13植民地人」と「国王代理の総督府」の間に生じた亀裂が大きくなった結果の、”内戦”としてはじまりました。1778年にはフランス国が植民地人サイドについて参戦してきます。イギリスの内戦であったものが、国家間の対立に発展しました。1781年、バージニアのヨークタウンでイギリス軍が敗戦します。公式の終戦は1783年ですが、植民地人はここで事実上の独立を勝ち取ったようなものです。

「ボストン茶会事件」こぼれ話と事件の影響

「茶会事件」に、イギリス政府は厳しく応じました。1774年イギリス議会は「強制諸法(Coercive Acts)」と総称される懲罰的な一連の法を通過させます。マサチューセッツの自治権の剥奪し、ボストン港を封鎖しました。イギリス政府が布く様々の条令に対抗するため、13植民地は「第一次大陸会議」を招集します。

「ボストン茶会事件」は「茶法」への抵抗

「ボストン茶会事件」は、急進派の植民地人による「茶法」への抵抗、ひいてはイギリス議会への抵抗運動です。茶葉は「イギリス東インド会社」から輸入される予定のものでしたが、北アメリカの植民地人は茶葉の荷下ろしを拒絶しました。ボストンでは、40トンの茶葉が海に投げ捨てられました。「茶法」とはどんな法なのか、そして何が問題だったのか、まとめました。

3月5日の夜(ボストン虐殺事件)

午後8時頃、10代の少年グループがボストン関税局の近くを歩いていました。同じとき、英国陸軍の准大尉(Captain-lieutenant)ジョン・ゴールドフィンチ(John Goldfinch)がたまたまその近くを通りかかります。ウィッグ店の見習いだった13歳のエドワード・ジェリック(Edward Garrick)は、ゴールドフィンチ准大尉を見つけると言いました、「ゴールドフィンチは、代金の支払いを拒否したぞ!」。しかしゴールドフィンチ准大尉の支払いは、実は前日に済んでい…

高まる反英感情、ボストン虐殺事件が起こるまで

・脱税と密輸の取り締まり強化:関税局の本部がボストンに設置される ・マサチューセッツ代表者議会がイギリス産の課税品の非買運動をうながす ・関税局が密輸船リバティを押収、ボストン人の暴動が起こる ・ヒルズボロ子爵、イギリスに援軍を要請:第14および第29歩兵連隊の駐屯はじまる ・王党派の雇われ兵が、11歳の民間人を殺害

18世紀イギリス領アメリカのボストンで、兵士が大衆に発砲した事件

民間人と揉め事を起こしたひとりの護衛官が助けを求め、プレストン大尉率いる数人の兵士が援護に駆け付けました。見物に集まった大衆は兵士に雪玉や石を投げ、さらには大尉を棍棒で殴る者まであらわれました。大尉は発砲を命じませんでしたが、驚いた兵士らが発砲し始めました。弾は11人に当たり、3人は即死、8人が重軽傷を負い、このうち2人は怪我がもとで後ほど亡くなりました。

アメリカ独立への序章「砂糖法」

1764年4月5日、「砂糖法案」がイギリスの議会を通過しました。当時、フランス領およびオランダ領の西インド諸島(カリブ海)から北米のイギリス領へ、砂糖と糖蜜の密輸貿易が行われていました。これを終わらせるために設けられたのが「砂糖法(Sugar Act)」です。イギリス政府は収入源の確保も必要でした。フレンチ・インディアン戦争の戦費をまかなうたため借金(公債)が嵩んでいたのです。アメリカの植民地人にとって不快だったのは、商船の取り締まりの厳しさでした。

産業革命期さいしょの運河、リバプールへ石炭をはこぶため開通

サンキー運河は、イングランドに作られた最初の近代的な運河-あるいは産業革命期における最初の運河-であるといわれています。1757年に開かれ、マージー川沿いの町ウォリントンとパーを結びました。工業が栄えるリバプールまで主に石炭を運ぶために建設されました。運河の建設によって、運河沿いの小さな村々もまた工業の町として成長することになりました。