Stuart period

ステュアート朝:1371年~1603年(スコットランド)、1603年~1707年(連合王国)、1707年~1714年(グレートブリテン王国 & アイルランド) ENG: James I’s reign (1603-1625) – Charles I’s reign (1625-1649 / (1649-1660) / 1660-1685) – James II’s reign (1685-1688) – Mary II’s reign (1689-1694) – William III’s reign (1689-1702) – Anne (1702-1707 / GB: 1707-1014)

17世紀の陸路

道路の修理は、一般的には個々の小教区の責任でした。このため道路が修理されずに放置されることがしばしばありました。道路は穴だらけで、なかにはとても深い穴に水がたまっていることもあり、足がずぶ濡れになることも珍しくありませんでした。1663年、主要道路の一部※1の修繕計画が議会を通過しました。道路に通行料を課して修繕の費用にあてるのです。有料道路の登場です。運営は、民間に信託されました。

ロンドンに酔っ払いがあふれた時代-ジン・クレイズ-

17世紀後半~18世紀初頭にかけて、イギリス-とくにロンドン-で、「ジン」の消費量がいちじるしく上昇しました。ジンは蒸留酒です。この時期はジン・クレイズ(Gin Craze)-ジンに狂った時代-として知られています。多くの人が飲み過ぎで、市は酔っ払いであふれました。社会秩序が乱れ、ジンは蔓延する犯罪・売春・精神疾患などの原因であると考えられるようになりました。

政府御用達「イングランド銀行」の創設

1692年、議会が戦争債務の埋め方を模索しているとき、いちはやく融資を申し出たのがウィリアム・パターソンでした。1694年、イングランド銀行が創設されました。イングランド銀行は私立の銀行でありながら、議会法案の可決を経て、特殊な地位を独占しました。次第に中央銀行としての責任を負うようになり、20世紀に国営化されて現在に至ります。

グレートブリテン王国とハノーヴァー朝の誕生のいきさつ

1702年、ステュアート朝のアン女王( Anne, Queen of Great Britain )が戴冠します。ジェームズ2世の娘ですが、彼女の信仰は英国国教会でした。血筋についても信仰についても、心配ありませんでした。しかし後継ぎがないのは問題でした。嫡子はありましたが、1700年に11歳で世を去ったグロスター公ウィリアム( Prince William, Duke of Gloucester )を最後に、みな早世していたのです。

イギリス躍進の起点「スペイン継承戦争」

ルイ14世の孫フィリップはスペインの国王として継承権こそ認められましたが、領土という点では、イギリスがおおくの植民地を獲得する結果になりました。ユトレヒト条約は、イギリスが植民地帝国として躍進する重要な起点とみられています。いっぽうでフランスとスペインは結果的に、イギリス躍進の犠牲となったのです。

ホイッグ党とトーリー党

トーリー党とホイッグ党は、17世紀の王政復古期ーチャールズ2世の時代ーにうまれた政党です。ジェームズ2世が親カトリック政策をはじめると、両派ともが一致してジェームズ2世を追放しました。名誉革命を経て、アン女王の崩御でふたたび生じた王位継承問題。ジェームズ2世の息子の王位継承権を支持したのがトーリーで、プロテスタント派のゲオルグ・ルートヴィヒを支持したのがホイッグです。ジョージ3世の時代に転機が…