[詳しく]1世紀のイギリス
       

紀元43年にローマ軍がブリタンニア侵攻に成功して以来、1世紀のイギリスは徐々にローマ帝国の支配下に置かれました。ただしブリテン諸島(現イギリスを構成する主要な島々)の全土が征服されたのではなく、おもに本島の南西部~現イングランドにあたる地域が、ブリタンニアとしてローマの属州となりました。

ローマ帝国は、ブリタンニアを地理的に制御するために、多くの建物を建て、道路や橋などのインフラを整備しました。征服によってローマ帝国の文化や宗教も浸透しました。ローマ時代は遥か昔のようですが、今日のイギリスに繋がる様々なルーツがみられます。

1世紀のイギリスの主な出来事は次のとおりです。

  • ローマによる侵攻
  • ブリトン人の抵抗
  • ローマ支配の確立
  • ローマ文化の浸透
ローマ軍によるブリテン島侵攻(43 — 84)
出典 Wikimedia Commons
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43 CE:ローマによるブリテン島侵攻

初夏、ローマ皇帝クラウディウスがブリテン島への侵攻を命令

紀元43年の初夏、約2万人の補助兵を引き連れたローマ第4軍団が、ケントのリッチバラ( Richborough )に上陸しました。この一団を率いていたのは、アウラス・プラウティウス( Aulus Plautius )です。

当時のブリテン島には複数の部族国家が存在していました。それらを代表して率いたカトゥベラウニ国の王カラタクス( Caratacus )と、その弟トゴドゥムヌス( Togodumnus )が、ミッドウェー川でローマ軍と戦ったことがローマの記録に残っています。ブリトン人はわずか2日でローマ軍に討たれ、さらにテムズ川の戦いでも敗戦しました。トゴドゥムヌスは戦死し、カラタクスは地形を利用した防衛を考え西へ落ちのびました。

アウラス・プラウティウス が率いるローマ軍によるブリテン征服
ブリテン南東部
出典 Wikimedia Commons

43 CE:コルチェスターが陥落

ブリテン島南西の11の部族国家がローマ軍に降伏を表明

最初の戦勝報告を受けて、ローマ皇帝クラウディウス( Claudius )は、ローマの勝利と征服を象徴するために、軍を率いてブリテン島に上陸しました。そして同年の8月にカトゥベラウニ国の首都コルチェスター(カムロドゥヌム/Camulodunum)を掌握しました。ブリテン島南西の11の部族国家がローマ軍に降伏を表明しました。

ブリテン島侵攻の任を受けて軍を率いていたローマの武将アウラス・プラウティウス( Aulus Plautius )は、ブリテンの初代総督に任命されました。

これをもって「ローマ軍によるブリテン島の征服」と題されることもありますが、実際に島の大部分を征服し鎮静化するまでには、あとおよそ50年の歳月がかかります。

外部リンクList of Roman legions

c.44 CE:ドーセットが陥落

春、ローマの武将ウェスパシアヌスがドーセットのヒルフォートを掌握

ローマによるブリテン島侵攻の第2段階は、ウェスパシアヌス( Vespasianによるドーセットの掌握です。ウェスパシアヌスは当時はローマの武将のひとりで、のちにローマ皇帝の座に就く人物です。

※ウェスパシアヌス …43年よりブリタンニア遠征に参加する。この遠征は成功を収めた。52年の暮れに執政官(コンスル)に補欠として当選、その後軍隊を退役し、公的生活から一旦退いたのち、69年から79年にかけてローマ皇帝の座に就いた。ーWikipedia

ウェスパシアヌスは第2軍団アウグスタ( Legio II Augusta )を率いてドーセット( Dorset )に侵攻し、数々のヒルフォート(砦)を落としました

※ドーセットのヒルフォート… Maiden Castle や、 Hod Hill

48年までに、ローマ軍はハンバー河口( Humber river )~セバーン河口( Severn Estuary )の南側を制圧しました。

c.47 CE:総督の交替

ブリテン島侵攻を率いたアウラス・プラウティウスがローマに帰還し英雄として迎えられる

アウラス・プラウティウス(Aulus Plautius)は42年のブリテン島侵攻を率いたローマの武将です。征服したブリタンニア州の総督として47年までブリテンで勤めました。ローマに帰還すると、小凱旋式 ( ovatioでもって迎えられました。

※小凱旋式…古代ローマで行われていた凱旋式の一種であり、国家レベルの敵というよりは、基本的に劣っているとみなされる(例えば奴隷や海賊)相手に勝利した場合や、一般的な紛争がほぼ無傷で解決された場合に開催が許可されたーWikipedia

帰還したプラウティウスに代わって総督職に就いたのは、プブリウス・オストリウス・スカプラ( Publius Ostorius Scapula )です。

ローマでの小凱旋式
出典 Wikimedia Commons

c.47 CE:イケニ族の反乱

ローマが命じた武器の没収に反発

イケニ族( Iceni )は、現在のイーストアングリア( East Anglia )に相当する地域に暮らしていた部族です。イケニ族はローマと同盟を結んでおり、征服はされていませんでした。

そのような状況のなかで、プブリウス( Publius Ostorius Scapula )が新しい総督となり、イケニ族の武器の没収を命じたため、イケニ族はこれに反発し、蜂起しました。

この反乱は早々に鎮められました。イケニ族は引き続き、ローマの同盟国として独立を維持することはできたものの、親ローマ派と云われるプラスタグス( Prasutagusがイケニ族の王として据えられたようです。

※プラスタグス…のちに妻ブーディカがローマに大規模な反乱を起こす

イケニ族が暮らしていたおおよその位置
出典 Wikimedia Commons

49 CE:植民都市コルチェスター

現コルチェスター(カムロドゥヌム)にローマの植民都市を建設

多くの軍団兵がやがては退役する予定であるため、ローマはコルチェスター(カムロドゥヌム / Camulodunum )に退役軍人のための植民都市を建設しました。駐屯兵の宿舎として使われていた建物は個人住宅に代わり、新たに公共施設が建ち、皇帝崇拝を象徴する建造物も建てられました。また、先住のブリトン人の土地が没収され、退役軍人のための農場が整えられました。

コルチェスターは徐々に、ブリタンニア州の州都となってゆきました。

子供の埋葬地から見つかった置物
出典 Wikimedia Commons

51 CE:カラタクスの敗戦

反乱を率いたカラタクスが捕まる

ブリトン人の部族国家カトゥベラウニ国( Catuvellauni )は、43年のローマの侵攻に抵抗し戦いましたが破れました。国王カラタクス( Caratacus )は西に落ちのび、シリルズ族( Silures )つづいてオルドヴィセス族( Ordovicesの集落に身を寄せました。

※オルドヴィセス族の集落…現グロスターシャーおよびウェールズあたり

カラタクスは、ゲリラ戦を展開し一定の効果をあげていました。しかし最終的には会戦となり、ローマの総督プブリウス( Publius Ostorius Scapula )に敗戦します。再び落ちのびたカラタクスでしたが、ブリガンテス族( Brigantes )の裏切りに合い、捕獲されました。カトヴェラウニ国王としての地位こそ失ったものの、カラタクスは、イタリアで隠居生活を送ることを許されました。

カトヴェラウニ国のおおよその位置
出典 Wikimedia Commons

52 CE:南西ウェールズで反乱

夏、ゲリラ戦が激しくなる

ブリテン島の南西でローマに抵抗し戦っていたカラタクス( Caratacus )が捕獲されたあとは、シリルズ族( Siluresが主力となってゲリラ戦を続けました。

※ シリルズ族( Silures ) …拠点は現在の南西ウェールズおよびグロスターシャーに相当する地域

総督プブリウス( Publius Ostorius Scapula )は52年に亡くなりました。行政のストレスが原因と云われています。

プブリウスの跡を継いだアウラス・ディディウス・ガルス( Aulus Didius Gallus )がブリテン人との対立問題に当たると、この紛争はいったん下火になりました。

しかし58年、新総督クインタス・ヴェラニウス・ネポス( Quintus Veranius Nepos )のもとで、ついにシリルズ族は討たれました。シリルズ族が定着していた地域(現グロスターシャーおよび南西ウェールズ)には道が敷かれ、砦が築かれ、ローマ兵が駐屯するようになりました。

現ウェールズに相当する地域に定着していた当時の部族の分布図
出典 Wikimedia Commons

61年初夏:ローマ軍がブリテン西部に遠征

ドルイドがいるモナ島を制圧

「ドルイド」は古代ブリテンの司祭であり学者です。しかしローマ人は、ローマの指示や命令に従わない人々を総じて「ドルイド」と呼ぶ傾向がありました。

ブリテン最西の「ドルイド」を討つため、ローマ人総督ガイウス・スエトニウス・パウリヌス( Gaius Suetonius Paulinus )は、まずモナ半島( Mona / Anglesey )を平定しました。しかしこの遠征は、中断されました。ブリテン南東のイケニ族が女王ブーディカに率いられて反乱を起こしたため、この鎮圧に向かわなくてはならなくなったからです。

ローマ支配への抵抗を呼びかけるドルイドの想像画
(近世の挿絵、作者不詳)
出典 Wikimedia Commons

61年初夏:ローマ軍がブーディカの反乱を鎮圧

多くのローマ都市を攻撃したブーディカ

ローマ人はイケニ族の王プラスタグス( Prasutagus )が亡くなると、イケニ族の領土を併合しました。このため、プラスタグスの未亡人であり女王であるブーディカ( Boudicca )が蜂起し、この反乱は南西ブリテンに広がりました。

ローマ人が建てた都市カムロドゥヌム( Camulodunum / Colchester )、ロンドニウム( Londinium / London )、ヴェルラミウム( Verulamium / St Albans )が焼かれ、多くのローマ人が命を落としました。

最終的にブーディカは、ローマの将軍ガイウス・スエトニウス・パウリヌス( Gaius Suetonius Paulinus )が率いる大軍によって、ワトリング街道の戦い( Battle of Watling Street )で敗戦します。そして間もなく亡くなりました。

ウェストミンスターにあるブーディカ像
出典 Wikimedia Commons

69年の夏:皇帝ネロの死とローマの内戦

四皇帝の年を制したウェスパシアヌス

紀元69年、皇帝ネロ( Nero )が亡くなると、4人の人物が相次いで皇帝の名乗りをあげました。ガルバ( Galba )、オト( Otho )、ウィテリウス( Vitellius )そして、ウェスパシアヌス( Vespasian )です。「四皇帝の年」と呼ばれるローマの内戦を制した ウェスパシアヌス は、ブリテン征服の際に軍団を率いていた将軍でした。69年~96年まで続くフラウィウス朝を開きます。帝国各地で反乱が起き、ブリテンもその例外ではありませんでしたが、ここから新たな皇帝が出ることはありませんでした。

4人の皇帝が現れた時期
出典 Wikimedia Commons

69年の夏:ブリガンテス女王カルティマンドゥアが廃される

王配ヴェヌティウスによる反乱

イングランド北部にブリガンテスという部族国家がありました。ブリガンテスはローマと同盟を結んでいた国で、女王カルティマンドゥア( Cartimandua )が治めていました。

かつてローマに対する大規模な反乱を率いたカラタクス( Caratacus )は、落ちのびてブリガンテスに身を寄せましたが、女王カルティマンドゥアは親ローマ政策を採り、カラタクスの身柄をローマに引き渡しました。

それから間もなく、王配ヴェヌティウス( Venutius )が女王に対する反乱を起こし、ローマ軍によって追い払われました。この ヴェヌティウス が、紀元69年、内戦中のローマ軍と手を組んで、ふたたびブリガンテス女王カルティマンドゥアに対する反乱を起こしました。この反乱は成功し、女王カルティマンドゥアは王位を追われました。その後、カルティマンドゥアが文献に登場することはありませんでした。

ブリガンテスのおおよその位置
出典 Wikimedia Commons

71年の夏:ローマ軍がイングランド北部を征服

総督ィントゥス・ペティリウス・ケリアリス時代

およそ10年におよぶ比較的平和な時代を経て、ローマ皇帝ウェスパシアヌス ( Vespasianは、ブリテン島内のさらなる奥地の征服を命じました。ブリタンニア州の新総督クィントゥス・ペティリウス・ケリアリス( Quintus Petilius Cerialis )は、部族国家ブリガンテスを乗っ取ったウェヌティウス( Venutius )の討伐に成功し、イングランド北部を征服しました。総督ケリアリスは任期が終わる74年までに、カーライル( Carlisle )まで支配域を広げており、ここにローマの駐屯基地も築きました。

トア ダイク
ローマに対抗するブリガンテス部族 (ウェヌティウス) が築いた防壁
出典 Wikimedia Commons

78年の夏:ローマ軍がウェールズを征服

総督セクストス・ユリウス・フロンティヌス時代

セクストス・ユリウス・フロンティヌス( Sextus Julius Frontinus )は、74年にブリタンニア州総督に任命されました。3年に及ぶ遠征で、ウェールズ南東に位置したシリルズ( Silures )とウェールズ北部に位置したオルドヴィセス( Ordovices )を征服しました。こうしてローマはブリテン島の西部の大部分を支配下に置くようになりました。

フロンティヌスは、ローマが敷いた道路沿いに点在する丘に補助的な要塞を築き、南西のカーリーオン( Caerleon )と北東部のチェスター( Chester )に軍を常駐させて反乱などに備えました。

ローマ軍が侵攻した当時のウェールズの部族国家のおおよその位置関係
出典 Wikimedia Commons

78年の秋:ローマ軍がモナ半島(現アングルシー)に侵攻

総督グナエウス・ユリウス・アグリコラ時代

総督の交替を好機とみて、征服されたばかりの部落オルドヴィセス( Ordovices )がローマに反旗をひるがえしました。しかし新総督グナエウス・ユリウス・アグリコラ( Gnaeus Julius Agricola )は迅速に軍を率いてオルドヴィセスを平定します。さらにモナ半島( Mona / Anglesey )に侵攻し、ドルイドの最後の地を破壊しました。

ドルイドは文献を遺していませんが、おそらくは精霊を信仰する人々で、400以上の神々を頂き、人を生贄とする風習があったと考えられています。

アングルシーの位置
出典 Wikimedia Commons

79年の秋:セントオールバンズ( Verulamium )に自治組織が発足

総督グナエウス・ユリウス・アグリコラ時代

ヴェルラミウム( Verulamium / St Albans )に発足した本格的な自治組織を記念して、華やかな式典が催され、これに当時の総督グナエウス・ユリウス・アグリコラ( Gnaeus Julius Agricola )が出席しました。

公共の広場の周囲には商店が立ち並び、議事堂や集会堂や神殿が築かれました。ヴェルラミウム はローマ支配下のブリテン島における最も大きい且つ裕福な街のひとつとなりました。

ヴェルラミウムに遺るローマ時代の劇場跡
出典 Wikimedia Commons

79/80年の冬:ブリテンの上流層にローマ文化が浸透しはじめる

総督グナエウス・ユリウス・アグリコラ時代

総督グナエウス・ユリウス・アグリコラ( Gnaeus Julius Agricola )は、好戦的なブリトン人をローマ化する政策を展開しました。ブリトン人の貴族階級にラテン語を学ぶよう促し、トーガ( toga )をまとうことを推奨し、領地や建物を自治体に寄付して投資することを奨励しました。

考古学的な証拠の数々が、このローマ化が迅速に行われたことを物語っています。1世紀の終盤には、ブリテン南西の町や村はすっかりローマ化しました。

ローマ化が行われたおおよその段階線
南西部で強く北東にいくほど弱い
ハンバー川~セバーン川以北およびコーンウォールやデヴォンではローマ化ほとんど見、あるいは全く見られない
出典 Wikimedia Commons

82年の秋:総督アグリコラがアイルランド侵攻を計画するが未遂

総督グナエウス・ユリウス・アグリコラ時代

ローマ人総督グナエウス・ユリウス・アグリコラ( Gnaeus Julius Agricola )は、現在のスコットランド南西部にあたる地方をも征服し、続いてアイルランドへの侵攻を検討し始めました。侵攻の口実を得るために、亡命してきたアイルランドの部族国家の王子のひとりを匿った可能性もあると考えられています。しかし、この侵攻が実行されることはなく、アイルランドとは定期的な交易が行われるようになりました。

外部リンクGnaeus_Julius_Agricola#Hibernia

83年の晩夏:モンス・グラウピウスの戦い

総督グナエウス・ユリウス・アグリコラ時代

ローマの支配域を現在のスコットランド南部にまで拡張して3年以上が過ぎた頃、ローマ軍とカレドニア人の会戦が行われました。この戦いは「グラウピウス山の戦い( Mons Graupius )」と呼ばれますが、場所は判明してません。スコットランドのハイランドのどこかだろうと云われています。

総督グナエウス・ユリウス・アグリコラ( Gnaeus Julius Agricola )は、この戦いで大敗を喫し、南部へ撤退することになります。

※カレドニア人…現スコットランドに当時住んでいた人びとをローマ人はこう呼んだ

ローマ軍による北部遠征(80年-84年)出典 Wikimedia Commons

87年頃の夏:最北端の軍団が退却

建設から4年を待たずに解体されたローマ要塞

80年代の末頃、ローマ帝国の境界のどこかで危機があり、その影響で、ブリテン島でも北部戦線からの撤退を余儀なくされました。決定的な考古学的証拠はないものの、おそらくはインチトゥチル( Inchtuthil / Tayside )に築かれていた大きな要塞が、建設から4年を待たずに解体され捨て置かれたものと見られています。

※ローマ帝国の境界…おそらくはダキア( Dacia / 現モルドバ)

インチトゥチル に築かれていた考えられる要塞跡
出典 Wikimedia Commons

外部リンクList of governors of Roman Britain


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参考文献

Roman invasion
last edited on 23 January 2023, at 15:04 (UTC)
Roman rule is established
last edited on 23 January 2023, at 15:04 (UTC)
Roman Britain
BBC © 2014
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