先史時代のブリテン島
       

イギリスの先史時代とは、人類の渡来~紀元43年のローマ軍侵攻(ローマ皇帝クラディウスのブリタンニア遠征)までを指します。

狩猟採集を主とする生活が行われていた中石器時(c. 9,000 – 4,300 BC)、海面の上昇にともなって、大陸と陸続きだったブリテンが切り離されて島になりました。農耕と牧畜を中心とする生活に変る新石器時代(c. 4,300 – 2,000 BC)から、ストーンヘンジなど巨石を用いた祭祀用の碑が作られはじめます。

ブリテン島の青銅器時代(c. 2200 – 750 BC)を特徴づける出土品はビーカー土器です。商品経済の概念が普及し、富の格差が広がり始めました。巨石文化への興味が失われ、部族国家的な集落が築かれるようになり、鉱物資源を求めて戦争も起こりました。

ケルト文化の流入は青銅器時代の末期から始まっていましたが、鉄器時代(800 – 100 AD)が全盛期です。銅器よりも強い鉄器を用いて森を切り開き、農地を開拓し、小麦を生産しました。余剰作物や加工品を輸出し、ローマからワインや陶器を輸入しました。紀元前53年~54年には、ユリウス・カエサルがブリテン島への侵攻を試みましたが征服には至りませんでした。ブリテン島南部が征服されるのは、紀元43年です。皇帝クラウディウスが、ブリテン島内部の紛争に乗じて侵攻しました。

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石器時代(Stone Age)

中石器時代
Mesolithic:c. 9,000 to 4,300 BC

  • 狩猟採集を主とする生活
  • 大陸と陸続きだったブリテンが島になる

約1万年~8000年前:ブリテンが島になる

約1万年前に最後の氷河期が終わり、海面上昇がはじまった。大陸とブリテンを結んでいた陸路が湿地帯となり、紀元前6000年頃にはすっかり海水でおおわれた。ブリテンが大陸から切り離され島となる。

※ブリテン…イギリスを構成する本島、および諸島

最後の氷河期の地形
出典 Wikimedia Commons

Prehistoric period

新石器時代
Neolithic : c. 4,300 to 2,000 BC

  • 狩猟・採集を主とする生活から、農耕・牧畜による生活へ
  • 祭祀用の碑がつくられる(ストーンヘンジやオークニー諸島の遺跡群も、このころから造られ始めたと考えられている)

紀元前4300年頃~:大陸から農耕技術が伝わる

中石器時代までの人びとは狩猟採集を行い遊牧生活をしていたが、紀元前4500年頃より農耕を行い家畜を飼って定住する生活が定着し始める。大陸から伝わったもので、紀元前3000年頃までにブリテン島全域に浸透した。農耕と定住がはじまると、集落が発展しはじめる。

紀元前4300年~:土器の制作がはじまる

高温での処理を必要とする土器づくりが始まったことは、技術発展の重要なポイント。土器づくりの技術は農耕技術とともに大陸からもたらされた。当初の土器は簡素なものだったが、時代をくだるにつれて模様や装飾がみられるようになる。土器は耐久性があり、考古学史料としても貴重。

紀元前4300年~:小さな集落ができはじめる

じつはスコットランドやアイルランドと比べて、イングランドの定住集落は少なかった。従来の遊牧生活を続ける人々が多かったためと考えられている。新石器時代初期の集落は小さく、1軒~3軒ほどの家屋に、おそらくはいくつかの別棟を備えた程度のものだった。防衛力はほぼなかった。

紀元前4300年頃~:地下を掘って石を採掘

石を磨いて作る斧は、新石器時代から青銅器時代にかけての主要な道具。道具作りに適したキメの細かい石は、カンブリアやウェールズ、コーンウォール、北アイルランドなどで採掘された。

フリント石は地上に露出したものよりも、地下から掘り出したもののほうが良質。北アイルランド、スコットランド、イーストアングリア、南イングランドのチョークヒル( chalk hills )で採掘された。

フリント石の斧
出典 Wikimedia Commons

紀元前4000年頃~:共同埋葬の風習はじまる

前4000年頃の墓は、長形墓( long barrows )と呼ばれる。塚(土を盛ったもの)の中に、巨石あるいは木材を用いて墓室がつくられた。このような共同墓地の存在は、おそらく集落の人びとの結びつきを強める役割も担ったと考えられる。

オックスフォードシャーの長形墓
出典 Wikimedia Commons

紀元前3807年:木製の歩道が建設される

イングランドのサマーセットで、新石器時代に作られた木製の歩道跡が発見された。発見者にちなんでスィート・トラック( Sweet Track )と名付けられ、年輪年代学から紀元前3807年のものであることが明らかになった。木を交互に重ねたものが湿地帯に築かれ、橋のような役割を担った。

紀元前3500年頃~:儀式場が現れる

複数の集落の人たちが集まる儀式が、「土手と溝付きの囲い地( causewayed enclosures )」で執り行われるようになる。溝には、人や動物の頭蓋骨、土器や未使用の斧が捧げられていた。式典に使われたこのような囲い地は「Ritual landscape( Ritual landscape )」と呼ばれる。

土手と溝付きの囲い地
出典 Wikimedia Commons

紀元前3300年~:ストーンサークルとヘンジが現れる

ストーンサークルはヨーロッパ大陸でも見られるが、ヘンジ( henges )はブリテン島とアイルランドだけに見られる様式。ヘンジとは、輪状に掘られた溝とその外側の盛り土を言う。輪状に石を立て並べ、2つないし4つの入口が設けられた。たいていのヘンジは、式典用の囲い地のなかに作られていた。ソールズベリーのストンヘンジ( Stonehenge )が最も有名。

ストーンヘンジ
出典 Wikimedia Commons

紀元前3000年頃~:羨道墳が現れる

羨道墳( せんどうふん / passage graves )と呼ばれる、墓室に続く狭い通路をもつ墓が、前3000年頃から現れる。この通路は、冬至の太陽が昇る方角を向いていることが多い。

紀元前3000年頃~:有力者の墓地

これまでの共同墓地に変わって有力者一族専用の円形古墳が現れ始める。これらの墓からは副葬品も見つかっており、階級社会の形成がうかがえる。

紀元前3000年頃~:人口の増加と耕作地の開拓

この時代の集落跡と耕作地の拡大から、紀元前3000年頃に人口が増加したことが想像できる。紀元前2500年頃から円形家屋( roundhouses )が一般的となり、前2000年頃からは耕作地も整えられていく( field systems )。

ドーセットの円形古墳
出典 Wikimedia Commons

青銅器時代(Bronze Age)

青銅器時代
Bronze Age : c. 2200 to 750 BC

  • ビーカー人の土器の数々は、炭素年代測定で紀元前2475~2315年のものと推定されている
  • ビーカー人との交流を通じてブリテン島の先住民に商品経済の概念が普及
  • 先住民の間で富の格差が拡大し、垂直構造・部族国家群的な社会へ
  • ビーカー人は時代が下るごとに先住民の社会を経済的手段ないし軍事的手段で同化吸収
  • 巨石建造物への興味が失われる
  • 鉱物資源などを求めて諸部族間の戦争も起こる

紀元前2500年頃~:金属加工の技術が開発される

土器づくりの技術が導入されてから約2000年後、金属加工が行われはじめる。金属加工は、土器づくりよりも高温での処理を必要とする。小さな溶鉱炉と皮革製のふいごが用いられた。銅や青銅で武器や道具が作られたほか、装飾用の金も加工された。

※青銅…90%の銅と10%の錫

青銅器時代の主要な建材は木材であり、金属製の斧は木工技術の飛躍的な向上をもたらした。

金属加工の技術が導入されても、石器作りがすぐになくなったわけではない。日常的に使う道具には、石の加工品が用いられ続けた。

紀元前2400年頃~:専門職の登場

青銅器時代にみられる土器はよく装飾されていることから、土器づくりの専門職人が存在したと想像される。この土器は「ビーカー土器( beakers )」と呼ばれる。最初のビーカー土器の作り手は、おそらくは大陸から渡ってきたものと考えられている。

金属加工も専門職で、こちらはまた特別な存在として扱われていた可能性がある。

ビーカー文化
出典 Wikimedia Commons

紀元前2300年頃:エームズベリーの射手

2003年にエームズベリーで行われた発掘調査で多数の副葬品とともに男性の遺骨が発見された( Amesbury Archer )。副葬品は、銅のナイフや、金の髪飾り、よく装飾された土器、多数の石製の矢じりなど。男性の歯を測定したところ、中央ヨーロッパで育っていたことがわかった。近くにある2つの墓から発見された遺骨は、測定によって西ウェールズ出身者だとわかった。

エームズベリーの射手
出典 Wikimedia Commons

紀元前2049年4月:シーヘンジが建築される

1998年、ホルム=ネクスト=ザ=シー( Holme-next-the-Sea )で、オークの木を55本の柱で楕円形に囲んだ小さめのサークル( Seahenge )が発見された。塞がれた入口は、冬至の太陽が沈む方角(南西)を向いている。50の異なる青銅の斧が使われたことがわかっている。

シーヘンジ(博物館内で再現)
出典 Wikimedia Commons

紀元前2000年~:手の込んだ副葬品とともに埋葬された支配者たち

円形古墳に個々に埋葬された支配者層は、手の込んだ副葬品とともに発見された。ウェセックス( Dorset、Hampshire、Wiltshire、Berkshire )で発見されたこの時代の墓からは、青銅および銅製の短剣と、金や琥珀でつくられた品物が見つかった。

このほかノーフォーク( Norfolk )やフランスのブリタニー( Brittany )でも同様のものが見つかっており、広域に頻繁な往来があったことがうかがえる。

1993年レスターシャー( Leicestershire )で発見された小ぶりな墓は「ロッキントンのゴールドホード」として知られている(List of Bronze Age hoards in Great Britain)。2つの土器と、フランスのブリタニーで作られたとみられる銅の短剣、装飾された2つの金の腕輪が見つかっている。

Lewes Hoard からの出土品(16th to 12th century BC)
出典 Wikimedia Commons

紀元前1800年頃~:銅の採掘

最もよく知られている二つの鉱山は、アイルランド南部のガブリエル山( Mount Gabriel )と、北ウェールズのグレートオーム( Great Orme )。青銅器時代に使われた鉱山のほとんどは、鉄器時代には使われなくなった。

紀元前1500年頃~:金属加工技術の向上

青銅器時代の中頃になると、より洗練された金属製の武器や装飾品がつくられるようになる。柄を差し込むソケット型の槍先(socketed spearheads)や、短剣、両刃の剣のほか、ピンやブレスレッドが発見されている。

ソケット型の槍先(c. 1500-1150BC)
出典 Wikimedia Commons

紀元前1200年頃~:ケルト文化と部族国家の萌芽

青銅器時代を通じて起こった埋葬や信仰や儀式の変化は、社会構成に変化があったことをほのめかしている。新しい社会や信仰の在り方は鉄器時代を通じて続き、これは「ケルト文化( Celts )」と呼ばれる。おそらくは青銅器時代の後期から、複数の集落が併合された部族国家が現れ始めたと考えられている。

鉄器時代(Iron Age)

鉄器時代
Iron Age:800 to 100 AD

  • 大陸からケルト文化が少しずつ流入(ケルト人戦士団による征服か、先住民が影響を受けて変質したか定かでない)
  • 銅器よりも強い鉄器で森を切り開き農地を開拓
  • 農地を囲い所有権が重要となる
  • 堡塁が構築されたのは部族間の闘争によるものと考えられている
  • 小麦生産力に優れ十分な食料を生産し、狩猟犬・革・奴隷などを輸出する
  • ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)による2度のブリタンニア侵攻(前55-54年)

紀元前800年頃~:ヒルフォートの建設

ヒルフォートは、土塁の一種。青銅器時代の末期から現れ始め、鉄器時代の初期にはブリテン諸島の広い範囲で見られるようになり、中期にはこれがさらに増える。

これらヒルフォートは居住地でとしてではなく、季節ごとの集会や、食料の貯蔵用に使われたと考えられている。

ヒルフォートの一例

メイデンキャッスル
出典 Wikimedia Commons

紀元前700年頃~:鉄の加工技術が広く伝わる

紀元前7世紀~6世紀頃に作られた鉄製の品物が、イングランドやスコットランドやウェールズから出土している。しかし鉄製の品物が一般的になるのは紀元前4世紀頃。現代のものとそっくりのノコギリやノミ、その他の大工用具が発見されている。

紀元前700年頃~:小さな農場があらわれる

小麦や大麦やオートなど穀物の栽培に加えて、豚や羊など家畜の飼養を行っていた小さな農場の痕跡が 見つかっている。

鉄器時代の農場の再現(Butser Ancient Farm)
出典 Wikimedia Commons

紀元前500年頃~:スコットランドにブロッホがあらわれる

ブロッホ( brochs )とは、内部が空洞になった円形の石造りの建物。紀元前500年頃から建てられはじめ、紀元後1000年頃まで使用されたものも多い。内部には木製の階段と床が設けられており、おそらくは2階が居住用で、1階は家畜を守るために使われた。ブロッホはスコットランドの北部と西部に見られる。

ムーサのブロッホ(スコットランド)
出典 Wikimedia Commons

紀元前330年:ピュテアスがブリテン諸島を航海

ギリシャの地理学者ピュテアス( Pytheas )が、紀元前330年~320年頃にブリテン諸島を航海。ブリテン諸島について記録を残し、これがブリテン諸島に関して書かれた初めてのものとなる。(ピュテアス自身が書き残した書は現存せず)

ピュテアスは、ブリテン諸島の住民について「穀物を栽培して暮らす農耕民でたいていは平和だが、戦時は2輪馬車( horse-drawn chariots )を操り手ごわい。」と伝えた。またコーンウォール地方と地中海で錫の交易が行われていたことにも触れている。

紀元前300年頃~:サマセットに湖上集落

19世紀、サマセットでふたつの集落跡が発見された( GlastonburyMeare )。沼地の端に木製の基礎を築いて建てられた集落で、当時の木製建築の技術の高さがうかがえる。

水辺に築かれたこのような集落をクラノグ( crannogs )といい、北アイルランドやスコットランドやウェールズからも似た集落跡が発見されている。多くはローマ時代を通じて使われ、一部はそれから少し後まで使われた。

Glastonbury Lake Village のイメージ(20世紀画)
出典 Wikimedia Commons

紀元前200年頃~:非常に精巧な金属加工品

鉄器時代も末期になると金属加工の技術が大はばに向上しており、この時代の墓や信仰に関連する土地からは、非常に精巧につくられた金属加工品( torc など)が出土している。

紀元前100年頃に埋められたとみられる金銀のネックリング
出典 Wikimedia Commons

紀元前100年頃: 貨幣が使われ始める

ブリテン島で発見された最初の硬貨は金貨で、フランスで鋳造されたもの。紀元前70年頃からブリテン島の南部イングランドで硬貨がつくられるようになった。

北イングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランドで鋳造された鉄器時代の硬貨は見つかっていない。

紀元前50年頃にブリテン島で鋳造されたとみられるコイン
出典 Wikimedia Commons

紀元前55年の晩夏:ユリウス・カエサルがブリテン島に上陸

ガリア地方(現フランスおよびベルギー)を征服したカエサル( Julius Caesar )が、兵を率いて海峡を渡りブリテン島に上陸した。おそらくは偵察であり、ガリア地方を支援していたブリテン島の人びとに警告を送った。

ブリテン島の部族は沿岸で戦いを挑んだが、押し戻され、休戦を求めることになった。カエサルは同年の冬にいったん大陸に戻る。

カエサルの上陸のイメージ(近世画)
出典 Wikimedia Commons

Early contact

紀元前54年夏:カエサルによる本格的な侵攻

カエサルによる2度目の侵攻は紀元前54年の夏に行われた。約2万5千の兵を率いて上陸したカエサルの軍は、抵抗するブリトン人に対し勝利を重ねたが、嵐によって艦隊が座礁。この隙にブリテン人はカッシウェラウヌス( Cassivellaunus )というリーダーのもとで団結し、ゲリラ戦を展開した。ところが仲間の裏切りに合い、結果的にカエサルの勝利で終わる。

同じころガリア地方で、征服に屈さない人々が反乱を起こした。カエサルは鎮圧のために大陸へ引き返し、ブリテン島に戻ってくることはなかった。ブリテン島は征服こそされなかったが、文化などあらゆる面において、ローマの影響を受けることになる。

紀元前52年頃:ガリア出身のコミウスがブリテンに王国を築く

ガリアのアトレバス部族( Atrebates )のリーダーであるコミウス( Commius )が、イングランド南部の中央に王国を建てた。

コミウスはかつてローマ軍に味方し、カエサルに伴ってブリテン島遠征に参加していた人物。しかし紀元前52年に起きたガリア人の反乱では、ガリア人側に加わってローマ軍と戦った。そしてこの戦いに敗れてブリテン島へ逃れてきたのだ。

コミウスが建てた王国の中心地はシルチェスター( Silchester )。ここで独自の硬貨の鋳造も行われた。

紀元前50年頃~:オッピドゥムがブリテン島に及ぶ

中央ヨーロッパのケルト系の文化圏を、ローマ人は「オッピドゥム( oppidum )」と呼んだ。この文化圏は紀元前200~前100年頃に現れ、ヨーロッパの広域に広まり、紀元前50年頃にはブリテン島までおよんだ。ハルシュタット文化 あるいは ラ・テーヌ期文化 とも呼ばれる。

初期の代表地域は南イングランドのコルチェスター、セントオールバンズ、シルチェスター( ColchesterSt AlbansSilchester )。ローマ軍の侵攻を受けた頃には、さらに北部のヨークシャー( Stanwick )まで浸透していた。ただしスコットランドやウェールズには及ばなかったもよう。

ケルト(オッピドゥム)文化圏
出典 Wikimedia Commons

紀元前27年夏:ブリテン島侵攻計画は実施されず

ローマ皇帝アウグストゥスは、ローマ帝国の安全な国境を定める過程で、ブリテン島への侵攻を計画。しかしこれが実行されることはなかった。アウグストゥスは、ブリテン島の二つの王国(DubnovellaunusTincomarus )から嘆願を受けており、ブリテン島とローマはのち数十年にわたって良好な交易関係を続けることができた。

紀元前20年~:ローマの影響がブリテン島南部に浸透

紀元前120年頃からワインなどに限定されたローマ産の品物は輸入されていた。紀元前20年頃からはこの交易が強化され、ワインのほかに陶器や金属加工品なども輸入されるようになった。ブリテン島から輸出したのは、奴隷、穀物、猟犬、貴金属など。

10年頃:クノベリヌスがカトゥヴェッラウニの国王になる

クノベリヌス( Cunobelinus )という人物が、カトゥヴェッラウニ(Catuvellauni)という国に、およそ30年にわたって君臨し、周辺の広い地域を征服した。コルチェスターやセントオールバンズで鋳造された硬貨に彼のクノベリヌスの名が刻まれている。支配域はハートフォードシャーを中心にイーストアングリアから南東に及んだとされる。

紀元100年頃のローマの歴史家スエトニウス( Suetonius )は、クノベリヌスを「ブリテンの王( Britannorum rex )」と記述している。

39年頃:王クノベリヌスの後継争い

「ブリテンの王」とも称されるクノベリヌスが病に伏すようになり、王位継承戦争が起きた。王の末男アドミニウスはローマへ逃れて皇帝カリグラ( Caligula )に匿われる。アドミニウスの兄たちであるカタラクスとトゴドゥムヌスは、父王が征服した広大な領土の支配者として留まった。

40年の夏:ローマ皇帝カリグラがブリテン島侵攻を計画

ローマ皇帝カリグラ( Caligula )は、ブリテン島への侵攻を計画した。ユリウス・カエサルが成し遂げられなかったブリテン島の征服を夢みたのかもしれない。しかし肝心の軍隊が乗り気ではなく、協力を得られなかった。この軍隊はブリテン島の海岸で、貝殻を集めて帰ったと伝えられる。

42年の夏:アトレバス王国の王ベリカがローマ皇帝クラウディウスに復位の支援を求める

「ブリテンの王」と称されたクノベリヌスの死後、支配域を継承した息子の カタラクス と トゴドゥムヌス はさらに周辺を征服して領土を広げた。アトレバス王国( Atrebates )の王ベリカ( Verica )は、その地を追いやられ、最終的にローマに逃れて皇帝クラウディウス( Claudius )に支援を乞うた。

これが、翌年に行われるローマによる侵攻の口実となる。


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参考文献

Prehistoric Britain
last edited on 28 May 2022, at 10:38 (UTC)
Bronze Age Britain
last edited on 28 June 2022, at 21:28 (UTC)
British Iron Age
last edited on 11 May 2022, at 23:03 (UTC)
Neolithic and Bronze Ages
BBC © 2014
Iron Age
BBC © 2014

1-5世紀のイギリス
1-5世紀のイギリス
紀元40年頃~410年頃まで、ブリテン島の南部はローマ帝国の属州だったので、この時代を「ローマン・ブリティッシュ時代」などと呼びます。ローマ人は、支配下に置いた.....
       
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