6世紀~11世紀、暗黒時代、アングロサクソン時代、七王国時代、ヘプターキー、バイキング時代、ノルマン・コンクエスト
アングロサクソン人が「大異教軍」と呼んだこの軍団は、871年にスカンジナビアから到来した「大夏軍」によってさらに増強されました。そしてこののち10年以内に、アングロサクソン人の王国のほとんどが、この侵略者によって陥落させられるのです。867年にノーザンブリア王国が陥落、869年にイーストアングリア王国が陥落、874年~77年にかけてマーシア王国の大部分が侵略されました。王国、学舎、所蔵物、教会が、デーン人の猛攻撃によって崩壊しました。
女性の衣服は、1枚以上の長そでのチュニックと、ペプロス( peplos )とも呼ばれるチューブ状の衣服で構成されていました。チューブ状の衣服はピンで肩に留めて着用します。スカンジナビア地方の洋服を特徴づけるものとして最も有名なのは「エプロンドレス( Apron Dress、trägerrock、hängerock、smokkr)」と呼ばれる衣服です。
衣服の主流はチュニック( tunic )でした。富裕層が着るチェニックは丈が長く、色鮮やかで高品質な布が、その豊かさを象徴していました。素材はシルクや、シルクで縁取られた布でした。農民や兵士のチュニックは膝丈もしくは膝上丈でした。 一般人と、重装備の兵の例です。
ブリテン島各地に乱立したアングロサクソン人の王国は互いに争い、7世紀初頭には上述の七つの王国が主要な王国として台頭していました。7世紀~8世紀を通じてさらに淘汰され、イーストアングリア王国、ノーザンブリア王国、マーシア王国、ウェセックス王国の4つが主要な王国として順に覇権を握ります。9世紀~10世紀にかけてはバイキングの侵攻に苦しみました。このなかで生き残ったウェセックス王国が覇権を握ってバイキングに反撃をしかけます。
アゼルスタンは、エドワード長兄王の息子で、アルフレッド大王の孫にあたります。アゼルスタンは937年の「ブルナンブルの戦い(Battle of Brunanburh)」に勝利してイングランドの領域を広げました。この戦いは、かつてないほどの血みどろの戦いとして語り継がれています。アゼルスタンは、スコット人、ケルト人、デーン人およびバイキングからなる同盟軍を打ち負かし、「全ブリテンの王」を名乗りました。
エドレッドは、エドワード長兄王と三番目の妃の息子です。実兄エドマンド1世をついで王位に就きました。
「北欧人(バイキング)の打倒」は、もはやイングランド王家の宿命ともなっていました。エドレッドは、954年、ノーザンブリアを支配していた北欧系の王エリック(Eric Bloodaxe)の追放に成功しました。エドレッドは胃腸に深刻な病気を抱えており、これが重症化して命を落とします。30代前半であったと考えられ、結婚はしておらず、子供もありませんでした。
エドワードは、12-13歳で即位しました。エドワードは先王エドガーの長男でしたが、父王からは継承者としての指名はなく、異母弟エゼルレッド(Æthelred)と王位を争ったとされています。
エドワードは、カンタベリー大司教ダンスタン(Dunstan)およびヨーク司教オズワルド(Oswald)によって戴冠されました。しかし978年、およそ16歳のエドワードは、コーフ城(Corfe Castle)で暗殺されます。
ローマが撤退した410年以降、旧支配下域はローマの加護を受けられなくなり、混乱の時代を迎えます。この時代の文献はほとんど残っていません。市は崩壊し、建物には石よりも木が作られるようになり、ローマ侵攻以前のケルト的なヒルフォート(Hillfort)が目立つようになりました。
ローマンブリティシュ人が住んでいた4世紀ころから、ケントは度重なる海からの攻撃にさらされてきました。そこでどうやら、ゲルマン語を話す異民族が傭兵として招き入れられて、この地域に住み始めたようです。410年にローマ支配が終わると、さらに新たなゲルマン語系の民族集団がこの地に移住してきました。最初に定着したのはジュート人で、東ケントに王国を築きました。
エドマンド2世は、先王エゼルレッドと最初の妃の息子です。1016年10月、エドマンド2世は「アサンドゥンの戦い(Battle of Assandun)」でクヌート軍に大敗を喫しました。クヌートがイングランド全土を手中におさめ、イングランド王位に就きました。