19世紀のイギリスは産業革命によって大きく変化しました。19世紀はじめの国勢調査では全人口の2割だけが都市部に暮らしていましたが、中ごろには全人口の半数が都市部へ移り、20世紀が近づくころには3分の2が都市部へ移住していました。当初は農業が中心の社会でしたが、後半になるにつれ工業が一般的になりました。職人の手で作られていた品物は、機械で造られるようになりました。
扉絵:Victorian School of Art and Science at Stroud, Gloucestershire. (C)
1807年
奴隷貿易の廃止
奴隷貿易に反対する議会のリーダーを務めたウィリアム・ウィルバーフォースが、学生時代からの友人で政治家であるピットに働きかけ、奴隷貿易禁止法を実現させた。
1814年
ナポレオンがエルバ島に送られる
2年前の1812年、ナポレオン軍はロシア侵攻を試みた。ロシア軍は、焦土戦術で敵兵を減らし、モスクワ(ナポレオンが入城を果たした)に放火して焼け野原にするなどして、ナポレオン軍に撤退を決意させる。撤退の道中、冬将軍の到来に加えて発疹チフスの流行があり、ロシア国境まで生還したフランス兵はわずかであった。この大敗を受けてヨーロッパ諸国が活気づく。第六次対仏大同盟によって、1814年にパリが陥落して、ナポレオンはエルバ島へ流された。
1815年
ウォータールー(ワーテルロー)の戦い
エルバ島を脱したナポレオンが復位し連合国に講和を提案するが、否定されて戦争に至った。ナポレオンは、ウェリントン公率いるイギリス軍およびプロイセンの連合軍にワーテルローの戦いで完敗する。ナポレオンは再び退位させられ、セントヘレナ島に幽閉されて生涯を終えた。
1819年
ピータールーの虐殺
マンチェスターのピータズフィールドで、選挙法改正を求めて集会を開いていた群衆に、鎮圧のため騎兵隊が突入し、多数の死傷者が出る惨事となった事件。
1825年
ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開通
イングランドの土木技術者、機械技術者のジョージ・スチーブンソンが、世界で初めて公共鉄道の実用化に成功。「鉄道の父」と呼ばれる。
1829年
ローマカトリック教徒救済法を可決
カトリック教徒解放運動は長年におよぶものだが、その中で最も重要な施策が同年のカトリック教徒救済法であり、アイルランドの政治家ダニエル・オコンネルらによる運動の結果、残存していた多くの制約を取り除くものとなった。
1832年
中産階級に選挙権が拡大
第1回選挙法改正ホイッグ党のグレイ内閣によって、都市の中産階級に選挙権が拡大された。
1834年
”トルパドル殉教者(Tolpuddle Martyrs)”が流刑でオーストラリアへ
密かに農作業員の組合へ誓いを立てたグループが有罪判決を受けて流刑となった。
1837年
ビクトリアが女王になる
ビクトリアは、ジョージ3世の第4王子であるケント公エドワードの一人娘。3人の伯父たちが嫡出子を残さなかったため18歳でハノーヴァー朝第6代女王に即位する。世界各地に植民地をもつ大英帝国時代を象徴する女王として知られ、その治世は「ヴィクトリア朝」とも呼ばれる。
1845-1850年
アイルランドのジャガイモ大飢饉
ジャガイモの疫病死による不作はヨーロッパ全土で起こったが、アイルランドについては、その後の政策が悪く大飢饉が引き起こされた。アイルランドの領主のほとんどがブリテン島在住のイングランド人・スコットランド人だったため、領民の救済よりも地代収入を優先し、ジャガイモの輸出を制限しなかった。このためアイルランド内で餓死者が続出、飢饉を逃れるため多くがアメリカ等へ移住した。
1846年
穀物法が廃止され自由貿易体制が確立
穀物法は、地主貴族層が利益を守るために、外国産小麦の輸入を禁止して穀物価格を高値で維持していたものだが、産業資本家にとっては穀物が安価であるほうが労働者賃金を引き下げやすいため、反対運動を起こした。
1848年
『共産党宣言』を発行
ドイツのカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが書籍『共産党宣言』を発行
1851年
ロンドン万国博覧会
ロンドンのハイドパークで世界で最初の国際博覧会が開催される
1853-1856年
クリミア戦争
オスマン帝国の弱体化に乗じてロシアが南下してきたたため、警戒を強めたイギリスとフランスが、オスマン帝国と同盟を結んで戦争に至る。看護師ナイチンゲールが戦地へ赴き負傷兵たちへ献身した。
1854年
コレラの感染源を発見
排泄物は下水道を通って、飲料水ともなるテムズ川へ流れ込んでおり、テムズ川は当時ひどい悪臭を放っていた。ジョン・スノー医師がコレラの感染源が汚染された飲み水であることを発見する。
1857-1858年
インド大反乱(セポイの反乱)
インドが、イギリスの植民地支配に対する民族的抵抗運動を起こす。インドでは「第一次インド独立戦争」と呼ばれる。
1867年
第二次選挙法改正法案が可決される
この選挙法改正によって有権者数は100万人から200万人に増えた。
1870年
教育基本法が成立
無料の学校が導入され、10年後には10歳までの義務教育が敷かれる。
1879年
ズールー戦争
イギリス帝国と南部アフリカのズールー王国との間で戦われた戦争。イギリス領ナタールへの脅威であるズールー王国の軍事組織の解体を要求したのに対して、ズールー国王が拒んだことから起こった。イギリスが勝利し、ズールー王国の独立が喪失した。
1882年
フェニックスパークの暗殺事件
首相によりアイルランド担当大臣に任ぜらたフレデリック・キャヴェンディッシュと次官が、赴任先のアイルランドで人民族主義者(Irish National Invincibles)により暗殺された事件。
1884年
第三次選挙法改正法案が可決される
農業労働者・鉱山労働者が選挙権を得る
1889-1896年
ローデシアを掌握
セシル・ローズが南アフリカの一部(現ジンバブエ)を掌握ローデシアと命名した。
1893年
イギリス初の労働党議会議員
ジェームズ・ケア・ハーディ(James Keir Hardie)が労働党を創設しイギリス初の労働党議会議員となる。
1897年
National Union of Women’s Suffrage Societies (NUWSS)
女性参政権協会全国連合の結成