そもそも「カントリーハウス」という言葉は、ロンドンなどの都市部に建つ「タウンハウス」に対比する言葉として使われ始めたそうです。裕福な貴族やジェントリは、所有する広大な土地にお屋敷をもち、ロンドンなどの都市部にも邸宅をもっていました。季節ごとに滞在場所を変えて暮らしていたのです。「カントリーハウス」と混合されやすい言葉として「マナーハウス」があります。マナーハウスは、中世の封建領主の館です。後世、増改築して住宅として利用されたなら「カントリーハウス」の一種となります。
このページは、カントリーハウス【ロンドン近郊 編】です。 バッキンガム宮殿 Buckingham Palace バッキンガム宮殿は、19世紀初頭のリージェンシー(摂政)時代の面影を色濃く残す建造物のひとつです。建築家ジョン・ナッシュは、ジョージ4世のために莫大な費用を惜しみなく使いました。 バッキンガム宮殿には775の部屋があります。公式行事に使われる大広間は、8月9月および冬と春の特別日に一般公 […]
18世紀のイギリス、とくに都市部は、ジン・クレイズ-ジンに狂った時代-に代表される怠惰な社会に犯罪が蔓延していました。人々の心から信仰が忘れ去られ、宗教的な無関心が不道徳や無秩序のはじまりだとする考え方も広まりました。こうした社会のなかで信仰復興運動が起こりメソジスト派の起源となります。メソジスト派の運動はイングランドではじまったのです。
パワーハウスとは最も巨大なカントリーハウスのことを言います。中世のホールハウスから発展して必要に応じて部屋が追加されたか、もしくは地元の建築家によって新たに建てられた邸宅を便宜的にマイナーカントリーハウスと呼びます。 パワーハウスに比べて規模は小さく、数の上では勝ります。19世紀の産業革命につづいて、第三のカントリーハウスが、新しい富裕層によって建てられました。ビクトリアンハウスです。
クロムウェルはケンブリッジシャーのハンティンドン( Huntingdon )に、ジェントリ階級の息子として産まれました。1629年に議員になり、議会派(の独立派)としてイングランド内戦(ピューリタン革命)で活躍します。騎兵隊を率いて出世し、ニューモデル軍を率いる司令官の1人となり、「ネイズビーの戦い」で王党派を破って議会派を勝利に導きました。 敗戦したチャールズ1世との交渉は合意に至らず、またこの […]
ウィリアム3世※は、1650年にオレンジ公爵ウィリアム(オランイェ公爵ウィレム)としてオランダ共和国に産まれ、1689年からイギリス※の国王となった人物です。メアリ女王2世の王配としてイギリスを共同統治しました。 ※ウィリアム3世…スコットランドではウィリアム2世。※イギリス…当時のイギリスは、イングランド、スコットランド、アイルランドの3国の同君連合。 ウィリアム3世が国王として迎え入れられたの […]
1. ブリックリング・ホール
2. ハットフィールド・ハウス
3. ホウカム・ホール
17世紀後半~18世紀初頭にかけて、イギリス-とくにロンドン-で、「ジン」の消費量がいちじるしく上昇しました。ジンは蒸留酒です。この時期はジン・クレイズ(Gin Craze)-ジンに狂った時代-として知られています。多くの人が飲み過ぎで、市は酔っ払いであふれました。社会秩序が乱れ、ジンは蔓延する犯罪・売春・精神疾患などの原因であると考えられるようになりました。
長い歴史をもつカントリーハウスのなかには、ファサードやウィングに時代ごとの建築様式が混在しているものがあります。 時の有名建築家を雇える人は限られていましたので、おおくのカントリーハウスは、おもに地元の建築家によって改築されました。そのテイストは実用的で、時代の流行にも左右されました。
リチャード・クロムウェルはオリバー・クロムウェルの三男(生存者のなかで長男)です。第二代護国卿に就きました。父とは異なり軍事経験に乏しく、ニューモデル軍からの尊敬と信頼を得ることができませんでした。軍の統制をとることができず、また共和制の復活を求めた人びとによって最終的に辞任に追い込まれます。 リチャードの辞任後、国はわずかな共和制の期間を経ますが、再構成された議会によって国王※が呼び戻されると王 […]