近世

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テューダー朝・ステュアート朝・(ジョージアン期の)ハノーヴァー朝

18世紀~19世紀の馬車のスピード

有料化によって道路のコンディションが良くなったおかげで、馬車の移動スピードも向上しました。1750年代には平均時速8キロメートルだった乗合馬車が、1790年代には平均時速11キロメートルで走りました。メールコーチが時速24キロメートルで走行した記録もあります。

18世紀~19世紀の陸路

これまでの穴だらけ泥だらけの道に比べて、修繕された有料道路は快適でした。旅人や商人は「有料」の「価値」を認めはじめました。 道路のコンディションがよくなると、馬に背負わせる荷物の量を増やすこともできます。18世紀の終わりには、馬は1頭あたり 3,000kg 以上の荷を運んだそうです。 有料道路の運営と管理は民間団体に信託されました。ターンパイクトラスト(turnpike trusts)といいます。

17世紀の陸路

道路の修理は、一般的には個々の小教区の責任でした。このため道路が修理されずに放置されることがしばしばありました。道路は穴だらけで、なかにはとても深い穴に水がたまっていることもあり、足がずぶ濡れになることも珍しくありませんでした。1663年、主要道路の一部※1の修繕計画が議会を通過しました。道路に通行料を課して修繕の費用にあてるのです。有料道路の登場です。運営は、民間に信託されました。

ネルソン副提督が購入したカントリーハウス

1802年9月、ネルソンはロンドンに近いマートンプレイス(Merton Place)に、エレガントなカントリーハウスを購入しました。購入価格は、農場や森林付きで£9,000(現在通貨に価値換算すると約 £809,492、1億2千万円)でした。建物は18世紀に建てられた左右対称のクイーンアン様式です。愛人のエマ・ハミルトンとその夫であるウィリアムがここに暮らし、ネルソンとエマの娘ホラティアもここに暮らしました。ネルソンは、1805年10月の「トラファルガーの海戦」で命を落とすまで、およそ4年間、海に出ないあいだここに暮らしました。

「コペンハーゲンの戦い」副提督ネルソンの先制攻撃が功を奏する

1801年1月、ネルソンは副提督に昇進します。バルト海遠征軍に、ハイド・パーカーに次ぐ指揮官として配属されました。デーン人が果敢に抵抗に出たのを見て、パーカーは撤退のシグナルを発します。ところがネルソンはこれに従わなかったのです。

ナポリを奪還したネルソン少将、ハミルトン夫妻をともなって帰還

ナポリがフランスの手に落ち、王室メンバはシチリア島に避難 ナポリは船の修理に便利な港でした。「ナイルの海戦」で勝利したネルソンは、1798年9月に寄港し英雄として迎えられました。公使夫人エマ・ハミルトン(Emma Hamilton)も彼を歓待しました。 ナポリは南下してくるフランスに抵抗する国でした。ローマはすでにフランス軍に占領され、教皇は捕虜となっていました。ナポリ国王フェルディナンド(Fer […]

「ナイルの海戦」ナポレオンの計画をくじく要(かなめ)-フランス革命戦争

ナイルの海戦(1798年8月1日-3日) ナポレオンのエジプト侵攻計画、ネルソン率いる戦隊がフランス艦隊を追う 「テネリフェの戦い」で負傷し、片腕を切断したネルソンはイギリスに戻り療養していました。1798年の春、じゅうぶん回復したとして軍務に復帰します。提督ジャービス(Earl of St. Vincent)はネルソンの戦隊に、トゥーロン港(Toulon)に停泊しているフランス艦隊の監視を任せま […]

ネルソン代将「サンビセンテ岬の戦い」を勝利に導く-フランス革命戦争

霧がたちこめる海でネルソン代将は、近くをスペイン艦隊が航行していることに気づきました。27隻のスペイン艦隊がフランス艦隊と合流する手はずで、2つの隊にわかれて航行していたのです。ジャービス提督はスペイン艦隊の間に割って入り、敵の一方が援護に駆けつけるより速く他方を破壊する戦略をとりました。しかしイギリス軍の船は、戦略に見合ったじゅうぶんな速さで舵を切れていないことが徐々に明らかになります。

リージェンシー・ファッション(摂政時代の装い)

18世紀末~19世紀初頭 フランス貴族をイメージさせる装いを避ける 18世紀末から19世紀初頭のヨーロッパおよび関連する国々のファッションは、18世紀初頭の重厚なコスチュームから解放されて、かろやかな装いが流行しました。というのもフランス革命のあおりで、フランス貴族のようないでたちで出歩くことを好む人がいなくなったからです。また、かつての衣装は社会的地位に左右されるものでしたが、19世紀を迎えるこ […]

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