グレートブリテン王国の成立とハノーヴァー家への王位継承

グレートブリテン王国の成立とハノーヴァー家への王位継承
       
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イングランド議会が「王位継承法」を定める

教派に関わる継承問題

1702年、ステュアート朝のアン女王( Anne, Queen of Great Britain )が、イングランドとスコットランドとアイルランドの君主として戴冠しました

※アンの戴冠…ジェームス2世は親カトリック政策を行ったので「名誉革命」で追放されました。ジェームス2世の娘メアリが女王に即位し、夫ウィリアム3世と共同統治を行いましたが、嫡子のないまま亡くなりました。このためメアリ女王の実妹であるアンが王位を継ぎました。

アンは、ジェームズ2世の次女です。彼女の信仰はイングランド国教会だったので、血筋おいても信仰においても、問題はありませんでした。しかし後継ぎがないことは問題でした。

※イングランド国教会…英国国教会、聖公会、アングリカン・チャーチとも。16世紀にヘンリー8世がイングランドに創設した教派。プロテスタントの一派。

アンは十回以上も妊娠していたのですが、そのほとんどが流産や死産でした。無事に生まれた子供もいましたが身体が弱く、1700年に11歳で世を去ったグロスター公ウィリアム( Prince William, Duke of Gloucester )を最後に、みな早世していたのです。

これはプロテスタント派の君主を求める多数派にとって、大きな危機でした。

王位継承権をプロテスタント派に限るとする法を定める

1701年、イングランド議会はさきまわりして「王位継承法( Act of Settlement )」を定めました。王位継承権をプロテスタントに限るとする法です。

これにより、仮にジェームズ2世がアン女王より長生きした場合でも王位復帰は受け入れられなくなります。同様にジェームズ2世の息子ジェームズ・フランシス・エドワード( James Francis Edward Stuart )にも、娘ルイーザ・マリア・テレーザ( Louisa Maria )にも、継承権がないということになります。彼らの信仰はカトリックだからです。

ジェームス老僭王
出典 Wikimedia Commons

継承予定者はハノーファー選帝侯妃ゾフィー

ステュアート王家の血をひくプロテスタント派をたどると、最上位の継承権者はゾフィー・フォン・デア・プファルツ( Sophia of Hanover )でした。ジェームス6世&1世( James VI and I )の孫娘にあたります。

ゾフィは母からステュアート王家の血を引いてオランダのハーグで生まれ、神聖ローマ帝国の領邦国家ハノーファーの領主( Ernest Augustus, Elector of Hanover )に嫁いでいました。

イングランド議会は、アン女王亡き後の王位を、ゾフィへ継承することを決めました。

Facsimile of the Act of Settlement sent to Electress Sophia of Hanover

スコットランドは「王位継承法」に異論あり

「自国の君主は自国で決める」と反論

イングランド議会( Parliament of England )が定めた「王位継承法( Act of Settlement )」は、スコットランド議会( Parliament of Scotland )に相談がないまま強引に進められたものでした。

スコットランド議会は納得がゆかず「 Act of Security( Act of Security 1704 )」を可決して、自国の君主は自国で決める姿勢を示しました

※イングランド、スコットランド、アイルランドの3国には、ステュアート王家のジェームス1世 / 6世以来、同一の君主が君臨していた。国としてはそれぞれ独立した同君連合となっていた。

Parliament Hall, Edinburgh, meeting place of the Parliament from 1639–1707 (1852作).

イングランド議会、スコットランドに経済制裁を加える

スコットランドの「 Act of Security」に対してイングランド議会は「Alien Act ( Alien Act 1705 )」で応じました。

この法は、イングランド内に居るスコットランド人を外国人として扱うというものです。この法によってスコットランド人がイングランドに所有する不動産などは、相続が難しくなりました。

さらにイングランドは、スコットランド産の品物をイングランド及びイングランドの植民地に輸入することを禁じました。

加えて、スコットランドの蜂起をふせぐため、イングランドからスコットランドへの武器や弾薬、馬の輸出が禁じられました。

グレートブリテン王国の成立

困窮したスコットランド、イングランドと合体へ

経済的な圧力を加えられたスコットランドは、イングランドと合体する選択に向かうことになります。(この合体こそ、イングランドが何世紀もまえから欲していたことでもありました。)

1707年に「合同法( Acts of Union 1707 )」が成立し、ここにグレートブリテン王国( Kingdom of Great Britain )が誕生しました。輸出入の制限がなくなるとともに、両国の議会がひとつに統合されました。

“Articles of Union with Scotland”, 1707

ハノーヴァー朝のはじまり

ゾフィーの死去で息子ゲオルグが戴冠しジョージ1世に

王位を継承する予定だったゾフィー・フォン・デア・プファルツ( Sophia of Hanover )ですが、アン女王が崩御するほんの数週間前に、亡くなりました。このためゾフィーの息子ゲオルグが、1714年8月に王位を継承し「グレートブリテン王国」および「アイルランド」の国王となりました( George I of Great Britain )。

ここにハノーヴァー朝がはじまります。

George c.1714, the year of his succession, as painted by Sir Godfrey Kneller

なお「ゲオルグ」とはドイツ語読みです。英語読みでは「ジョージ」となります。ジョージが戴冠したときの年齢はすでに54歳でした。

ジョージは、スペイン継承戦争( War of the Spanish Succession )では、ハノーファー領主として戦場にも赴いていました。その生まれ育ちや環境から、精神的にドイツ(神聖ローマ帝国)の人であり、英語を話すこともなく、完全な「イギリス人」になることはありませんでした。

当時のイギリスにとっては、国王のアイデンティティやパーソナリティよりも、「教派がカトリックかプロテスタントか」が切迫した課題だったのです。


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参考文献

History of Britain and Ireland: The Definitive Visual Guide
DK (2019/10/3)
Kingdom of Great Britain
Wikipedia | last edited on 2 July 2022, at 22:35 (UTC)
Political background prior to 1707
Wikipedia | last edited on 30 June 2022, at 06:13 (UTC)

アン女王(Anne Stuart)
8月16日頃 公開:アン女王(Anne Stuart)
(📜ノート作成中)アン女王はステュアート王家最後の君主です。ジェームス2世の次女ですが、イングランド国教会を信仰するプロテスタント派です。メアリ2世の.....


       
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