エドワード6世は、ヘンリー8世と3番目の妃ジェーン・シーモアの息子です。9歳のとき、亡き父の跡を継いで国王となりました。政治については摂政に代わる評議会が設置されました。
エドワード6世は身体が弱く、結核であったと考えられています。15歳で世を去りました。
短い治世ではありましたが、この間にイングランドのプロテスタント化はいっそう進みました。イングランド国教会の祈祷書が書かれたのも、この時代です。
エドワード6世の死後の王位継承には、カトリック派とプロテスタント派という宗教問題が影響しました。エドワード6世はプロテスタントのジェーン・グレイを後継者に指名していましたが、カトリック派のメアリがジェーンを廃し処刑し、女王の座に就きました。
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エドワード6世(Edward VI)
治世 | 1547年1月28日-1553年7月6日(6年160日) |
継承権 | ヘンリー8世の息子 |
生没 | 1537年10月12日:Hampton Court Palace 1553年6月6日(15歳):Greenwich Palace |
家系 | テューダー家(Tudor) |
父母 | Henry VIII & Jane Seymour |
結婚 | ー |
子供 | ー |
埋葬 | Westminster Abbey |
年表
1547 | ヘンリー8世が亡くなり、息子エドワード6世が9歳で即位 |
エドワード6世の母方の叔父エドワード・シーモア( Edward Seymour )が、自らをサマーセット公爵( Duke of Somerset )に叙し、護国卿( Lord Protector )に就任する | |
スコットランド女王メアリとエドワード6世の結婚を強制する一環で、イングランド軍がスコットランド軍を破る( Battle of Pinkie ) | |
1548 | スコットランド国境がイングランドに支配されるのを防ぐため、フランスが6,000の兵を送る |
1549 | カトリック信仰を異端とする法が成立( First Act of Uniformity ) 聖人の肖像や偶像を取り除き壁画を塗りつぶすことを命じられる |
英国国教会のための祈祷書が導入され、教会の礼拝や式典が英語で執り行われるようになる | |
ウェストカウンティ(West Country / イングランド南西部)で宗教改革に反対する反乱が勃発 | |
ノーフォーク(Norfolk / イングランド東部)で土地の囲い込みに対する反乱が勃発 率いたのはロバート・ケット( Robert Kett )で、ウォリック伯に鎮圧される | |
1550 | サマーセット公爵が護国卿を免職される 新たにウォリック伯ジョン・ダドリー( John Dudley )が護国卿に就任し、自身をノーザンバランド公爵に叙す |
1552 | サマーセット公爵( Edward Seymour )が処刑される |
大主教トマス・クランマー( Cranmer )が祈祷書の二版を発行 | |
1553 | ノーザンバランド公爵( John Dudley )が、王位継承者について、自身の姪ジェーン・グレイを指名するようエドワード6世に圧力をかける |
エドワード6世、結核で亡くなる |
おもなできごと
摂政によって治められた治世
エドワード6世は、ヘンリー8世とジェーン・シーモア( Jane Seymour )の息子です。1547年に9歳で即位し、戴冠しました。プロテスタントの教育を受けて育った初めての国王です。
エドワード6世の治世は、護国卿(≒摂政)によって治められました。最初の護国卿は、エドワードの母方の叔父エドマンド・シーモア( Edward Seymour )で、続いてジョン・ダドリー( John Dudley )が同職に就いて実権をにぎりました。
経済悪化と社会不安
エドワード6世の治世は、経済の悪化と、反乱など社会的な不安定さが目立ちました。
スコットランドとの戦争にも多くの戦費が必要でした。戦況は、当初こそイングランドに有利でしたが最終的には退却することになりました。フランス北部( Boulogne-sur-Mer )からも和平と引き換えに撤退しました。
イングランドの宗教の状況
エドワード6世の治世に、イングランド国教会の在り方が、よりプロテスタントらしい特徴に近づきました。エドワード6世は宗教問題に関心が深かかったといわれています。
エドワード6世の父ヘンリー8世は、ローマカトリック教会から離脱はしましたが、カトリックの教義や式典を拒絶することはありませんでした。聖職者の独身制やミサ※を禁じたり、英語での礼拝を強制するようになったのは、じつはエドワード6世の治世に起きた変化です。
※ミサ…カトリック教会においてパンとぶどう酒を聖別して聖体の秘跡が行われる典礼(祭儀)。
エドワード6世の死と継承問題
1553年2月、15歳のエドワード6世は病に伏すようになります。結核でした。余命がわずかであることがわかると、王位継承について考えなくてはならなくなります。エドワード6世とその評議会が最も避けたかったのは、王位がカトリック派の手に渡ることでした。そこで、エドワード6世は後継者にプロテスタントのジェーン・グレイを指名しました。
ジェーン・グレイはエドワード6世の従甥(いとこの子供)にあたります。ヘンリー8世の娘である異母姉メアリ( Mary )とエリザベス( Elizabeth )を差し置いての王位継承は、物議をかもしました。
エドワード6世の死後、ジェーンはメアリによって廃位させられ処刑されました。ジェーンは「9日間のクイーン」として知られています。
メアリ女王はカトリック派でした。エドワード6世がおこなった宗教改革を覆す政治を行います。しかし子供のなかったメアリ女王が亡くなると、エリザベスが王位を継承し、ヘンリー8世とエドワード6世による宗教改革を復帰させました(1559)。
参考
Edward VI
King Edward VI (1547 – 1553)
Kings and Queens of England & Britain
A Brief History of British Kings & Queens