ウィリアム・パターソンは、スコットランド出身の商人です。イングランド銀行を創設し、経済学に関する執筆を行い、また不成功に終わったスコットランドのパナマ植民計画「ダリエン計画」に情熱をを傾けました。
William Paterson
ウィリアム・パターソン(経済)
生誕 | 1658年 Tinwald, Dumfries, Scotland |
死没 | 1719年 |
功績/貢献 | イングランド銀行創設、経済学書執筆、ダリエン計画(不成功)、王立スコットランド銀行の創設 |
若い日をバハマに暮らした商人
パターソンはスコットランドのティンヴァルド( Tinwald, Dumfries, Scotland )の農家に生まれ17歳まで両親と共に過ごしたのち、ブリストル( Bristol )とイングランドを経て、カリブ海のバハマ( Bahamas )に暮らし、ヨーロッパに戻りました。
イングランド銀行の創設
資金繰りに悩む政府に銀行からの融資を提案
イングランド政府が戦争に費やした負債のまかない方を模索していた1692年、パターソンはいちはやく政府に多額の融資を提案しました。パターソンは1686年までにロンドンのテイラーズ商社( Merchant Taylors’ Company )の一員になっており、貿易-主に奴隷貿易-で富を築いていました。
イングランド銀行の創設
パターソンの提案は初めこそ却下されますが、「公的資金を銀行が融資する」というモデルの確立に成功します。この草案はパターソンをはじめ、財務府長官チャールズ・モンタギュー( Charles Montagu, 1st Earl of Halifax )らによって作られました。こうして1694年、イングランド銀行が創設されました。
イングランド銀行を退く
パターソンは同銀行の重役に就きます。しかしながら、仲間との意見の不一致によって、翌年には銀行を退くことになります。その後、ロンドン市内に別の銀行の創設を試みますが、こちらは思うように運びませんでした。
ダリエン計画の挫折
中米パナマにスコットランドの植民地をつくる計画
イングランドやスコットランドの商人にまざってパターソンは投資先を探しました。パターソンの情熱は「ダリエン計画( Darien scheme )」へ向けられるようになります。ダリエン計画とは中米のパナマ地峡にスコットランドの植民地をつくる計画です。太平洋と大西洋を分断する位置にあり、この陸路を管理下におきたかったのです。
会社での地位を逐われても情熱かわらず
1695年「スコットランドのアフリカおよびインド会社( Company of Scotland )」の創設案がスコットランド議会を通過して、創設されました。この会社を主導するひとりとして、パターソンは「ダリエン計画」を提唱します。しかしパターソンは、この会社での地位を奪われました。証拠はでなかったにもかかわらず、会社の資金の損失に関与した疑いをかけられたのです。
それでも会社は「ダリエン計画」を実行しました。パターソンは1698年の遠征に「民間人」として同行し、これに投資を行いました。
準備不足と不運に襲われ挫折
しかし様々の面において、計画不足だったようです。まず主導陣が分裂してしまいましたし、イングランドから経済制裁を受けている最中でしたので貿易封鎖によって需要がなくなったりしました。
不幸にも疫病まで流行しました。パターソンは妻と子を亡くし、自身も重い病にかかりました。
スペイン帝国軍の攻撃を予想できていなかったことも手伝い、ついにダリエン計画は消滅しました。スペイン軍による包囲と港封鎖を受けた1700年3月のことでした。
イングランドとスコットランドの合体
国王ウィリアム3世を説得
ダリエン計画の失敗によってスコットランドは財政危機に陥りました。これは、スコットランドが1707年の合同法( Act of Union )を受け入れざるを得なくなる重要な要因のひとつです。合同法によってイングランドとスコットランドは合体してグレートブリテン王国となり、議会はひとつにまとめられました。なおパターソンはこの合同法を強く支持し、ときの国王ウィリアム3世を説得したひとりとされています。
王立スコットランド銀行の創設に貢献
パターソンは「王立スコットランド銀行( Royal Bank of Scotland )」の創設にも貢献しました。この銀行はパターソンが亡くなった後の、1727年に創設に至りました。