中世後期のイギリス(年表式)11世紀・12世紀・13世紀・14世紀・15世紀
       

11世紀初頭、デンマーク&ノルウェー王のクヌートがイングランド王を兼ねていました。その支配域から北海帝国とも呼ばれましたが、彼の死後に再び分裂します。イングランドはクヌートの息子が継ぎますが、その死後はアングロ・サクソン系の王が復位しました。この王はエドワード証聖王とよばれます。彼の幼少期にイングランドはデーン人(デンマーク&ノルウェー)の侵略を受けていたため、彼は母方の故郷ノルマンディに亡命し、そこで四半世紀を過ごしていました。

エドワード証聖王には子がなく、その死後に後継者争いがおこります。サクソン貴族のハロルドが即位しますが、ノルウェー王ハーレル、ノルマンディ公ギョーム2世も王位を主張し混乱の末に戦争になりました。この戦いで勝利を収めたノルマンディ公ギョーム2世がウィリアム1世としてイングランド王になります。

バイユーのタペストリー
ノルマン勢のイングランド上陸のシーン

図:Landing in England scene from the Bayeux Tapestry, depicting ships coming in and horses landing (C)

ウィリアム1世は反乱諸侯の領地を取り上げ、戦争で功績のあったノルマン人に分け与えたため、サクソン人の貴族はほとんどいなくなりました。農民からすると領主が入れ替わったという感じでしょうか。支配者がサクソン人からノルマン人に変わったので、これをノルマン・コンクエスト(ノルマン人による征服)と呼びます。

なお、このときノルマン人が征服したのはイングランドであり、ウェールズ、スコットランド、アイルランドは変わらずそれぞれ旧来のケルト人(ブリテン人)の勢力下にありました。

こうして新たな時代が始まります。

扉絵:The White Tower dates from the late 11th century. (Most of the early Norman castles were built from timber, but by the end of the 11th century a few, including the Tower of London, had been renovated or replaced with stone.)  (C)

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11世紀

1066年ノルマン征服の主な出来事と場所

図:Location of major events during the Norman conquest of England in 1066. (C)

1057年

ノルウェー王がイングランドの王位についた時から亡命していたエドマンド2世の息子エドワード(Edward the Exile)は、エドワード証聖王に呼ばれイングランドに帰国するも、到着2日後に死亡する

1066年

 エドワード証聖王(懺悔王)の死後、ウェセックスのハロルドが王位に就くも、ノルウェー王ハーラル3世、ノルマンディ公ギヨーム2世も自らの王位を主張し争う

ハロルドはノルウェー王ハーラル3世の軍を討つが、ノルマンディ公ギヨーム2世の軍に撃破され、ノルマンディ公ギヨーム2世がウィリアム1世としてイングランド王に即位する

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抜粋文:1066年、ノルマンディ公爵ウィリアムが、イングランドに侵攻し国王ハロルドを破りました。ウィリアムはイングランド王として戴冠し、ノルマン人によって国土が審査され.....

この頃のできごと

ウィリアム1世は反乱諸侯(サクソン人)から領土を取り上げて功績のあるノルマン人に分け与えた。修道院や大聖堂を建設し、ロンドン塔の建設にも着手する。

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抜粋文:ノルマン人による征服をうけたイングランドには、その結果として数多くの「城 / 要塞」が建てられました。 その約8割がモット・アンド・ベイリー(motte-and.....

1085年

ウィリアム1世の命令で世界初の土地台帳(ドゥームズデイ・ブック)が作られる

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抜粋文:ヘイスティングスの戦いに勝利したノルマンディ公ウィリアムは、イングランド国王として戴冠しました。 王位を狙う主なライバルこそいなくなったものの、ウィリアムの支配.....

1087年

ウィリアム1世の死後、息子のひとりが即位しウィリアム2世となる

1093年

スコットランドのマルコム3世がノーザンブリア伯(ノルマン人)に討たれる

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抜粋文:目次 1. ウィリアム征服王 VS マルカム3世 2. マルカム3世の死後の王位争い 3. デビッド1世による大改革 4. ノーザンブリア伯爵領の没収およびカン.....

12世紀

(1140年)赤:ステファン=イングランド、青:アンジュー、灰:ウェールズ民

図:Political map of the Angevin and Welsh revolt in 1140; red indicates those areas under Stephen’s control; blue – Angevin; grey – indigenous Welsh. based on data in Jim Bradbury’s book “Stephen and Matilda”, p.89 and p.180. (C)

1100年

イングランド王ウィリアム2世の不慮の死により、弟のヘンリー1世が即位

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抜粋文:1100年に三男ウィリアムの死をうけて、ヘンリーがイングランド王国を継承することになりました。すると翌年、イングランド王国を欲した長男ノルマンディ公爵ロバートが.....

1114年

ヘンリー1世の娘マチルダ(12歳)が神聖ローマ皇帝と結婚

1120年

ヘンリー1世の唯一の息子が海峡で事故死する

1135年

ヘンリー1世は娘マチルダの即位を望むが、ヘンリー1世の死後は甥のステファンらが阻んでマチルダの即位は成らず、ステファンが戴冠した

1152年

マチルダの息子ヘンリーがアキテーヌ公女アリエノールと結婚しフランスに広大な領地を得る

1154年

マチルダの息子ヘンリーがイングランド王に即位し(ヘンリー2世)、プランタジネット朝の最初の王となる(彼はウェールズの広域と、ノルマンディ、アンジュ―、ガスコーニュ、その他のフランスの領地を支配下に置いていた)

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抜粋文:ウィリアム征服王のひ孫にあたるヘンリー2世は『カンタベリー大司教トマス・ベケット殺害事件』と『アイルランド征服』で知られています。 目次 1. Henry II.....

この頃のできごと

  • ヘンリー2世の治世に法や政治体制が強化される
  • ゴシック様式の建築がはじまる
  • ヨーク大聖堂の建築がはじまる
ベケット殺害の説明を含む時祷書から

図:Illumination from an English book of hours containing an account of the murder of Becket, c. 1390, National Library of Wales (C)

1170年

カンタベリー大司教ベケットがヘンリー2世の騎士によって殺される(かつてヘンリー2世と親しかったベケットは、ヘンリー2世の命令によってカンタベリー大司教に任じられた。教会を王の支配下に置く目的だったが、ベケットが本物のクリスチャンになって王に従わなくなっていた。)

1189年

ヘンリー2世の死後、息子のリチャードが王位を継承する。リチャード1世(獅子心王)は第3回十字軍を指揮する(その軍事費維持のため増税し、財を売った)

1199年

リチャード1世死亡の知らせを受け、代理で統治していた弟のジョンが正式に即位する(ロビン・フッドの物語はこのような時代が背景)

13世紀

マグナカルタに署名するジョン王(19世紀の画)

図:A romanticised 19th-century recreation of King John signing Magna Carta. Rather than signing in writing, the document would have been authenticated with the Great Seal and applied by officials rather than John himself. (C)

この頃のできごと

  • ジョン王はフランス国内の領土をめぐってフィリップ2世をはじめとするフランスの諸侯と対立し、戦いにことごとく敗れ、フランスにおける領地をほとんど失った(このため失地王とあだ名される)
  • ジョン王は教皇とも対立し、破門されたのちに謝罪して教皇に屈した
  • ジョン王は、外交政策の失敗、軍役代納金・増税などをめぐってイングランド国内の諸侯からも反発を招く

1215年

ジョン王は、「国王が貴族や聖職者の権利を認めるマグナ・カルタ(大憲章)」に署名することで諸侯と和解するも、わずか2ヶ月で破棄する

1216年

ジョン王が死去し、息子のヘンリーが王位を継承する(ヘンリー3世)

1272年

ヘンリー3世の死後、息子が継承しエドワード1世となる。エドワード1世は、国内の法整備を進め、近隣諸国と戦争を行いウェールズの大部分を獲得する。

1282-1284年

イングランド法を押し付ける過酷な統治にウェールズ人が反発 ウェールズ大公と共に反乱を起こすがエドワード1世が勝利し、ウェールズの独立は叶わなかった

1294-1299年

フランス王フィリップ4世が口実を見つけてイングランド王領であるフランスのアキテーヌ地方没収を言い出したため戦争になるが、最終的に和議で解決する(かつてのジョン王はフランスにおける領土のほとんどを失ったが、アキテーヌ地方だけは残っていた)

1297年

スターリング・ブリッジの戦いでウィリアム・ウォレス率いるスコットランド軍が対イングランド戦で初の大勝利を収める

1298年

エドワード1世がウィリアム・ウォレス率いるスコットランド軍を打ち破る

14世紀

1301年

エドワード1世は息子のエドワード(後のエドワード2世)にウェールズ大公の称号を与えた

1307年

エドワード1世が死去し息子のエドワードが王位を継承する(⇒エドワード2世)

1315-1322年

欧州大飢饉

1326年

エドワード2世が王妃イザベラのクーデターにより失脚し、翌年、議会によって廃位される

イザベラはフランス王フィリップ4世の娘で、エドワード2世に嫁いでいたがエドワード2世の寵臣ディスペンサー父子と対立していた。あるときイザベラは「エドワード2世がアキテーヌ領有を続けられるよう手助けする」ことを口実にイングランドを離れフランスに出向いたが、イングランドへの帰国を拒否しパリに滞在しつづけた。イザベラは反ディスペンサー貴族の支持を得て、1326年、イングランド東部のサフォークから上陸し、ロンドンへ進軍した。ディスペンサー親子は処刑され、エドワード2世はケニルワース城で幽閉の身となった(ケニルワース城、バークレイ城)。

1327年

エドワード3世が即位し(イザベラが摂政を務める)、エドワード2世は幽閉中に惨殺されて崩御する

1330年

17歳になり実権を得たエドワード3世は、その母イザベラを終身刑とした

1337-1453年

フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター家イングランド王国の戦い、始まる(1世紀以上にわたって続いた一連の紛争に後世の歴史家は「百年戦争」と名付けた)

百年戦争の変遷
フランス(黄)、イングランド(グレー)、ブルゴーニュ(黒)

図:Animated map Hundred years war. This map shows the war`s evolution and the most important battles. Displayed in the map: France-Yellow / England-light gray / Burgundy-dark gray Battles: Battle of Crecy (1346), Battle of Poitiers (1356), Battle of Agincourt (1415), Battle of Castillon (1429), Battle of Formigny (1450) Years shown: 1337, 1346, 1356, 1360, 1415, 1429, 1429-31, 1450, 1451-53, 1453. (C)

1348-1349年

黒死病の流行

この頃のできごと

エドワード3世の息子エドワード黒太子が、ポワティエの戦いではフランス王ジャン2世を捕虜とする。エドワード黒太子は優秀な軍人だったが、遠征中の病で父より早く死亡したため王になることはなかった。

1377年

エドワード3世が死去し、孫のリチャードが10歳にして王位を継承する

1399年

リチャード2世が、従弟のヘンリー・ボリングブルックら貴族層のクーデターによって王位から追放・幽閉され、翌年に死去する

15世紀

1400年

ヘンリー4世が戴冠しランカスター家最初のイングランド王となる

1413年

ヘンリー4世が死去し、息子のヘンリーが王位を継承する(ヘンリー5世)

1415年

ヘンリー5世が、アジャンクールの戦いでフランス軍を打ち破る(百年戦争)

1422年

ヘンリー5世が急死し、1歳に満たない息子が王位を継承する(ヘンリー6世)

1420年のトロワ条約において、フランス国王シャルル6世の死後はイングランド国王がその後継者になるとされていた。このためヘンリー6世は後にフランス王も兼ねる(シャルル6世はヘンリー6世の母方の祖父にあたる)

1453年

イングランドはフランス北部のカレーを除くすべての領土を失い、百年戦争がようやく終結する

ばら戦争にまつわる主要地

図:Map showing important locations in the en:Wars of the Roses. From History of the English People, Volume 3 by en:John Richard Green. First published in 1877. (C)

1455-1485年

ランカスター家とヨーク家の薔薇戦争はじまる

1453年のカスティヨンの戦いでの敗北の後、ヘンリー6世は一時的に精神疾患をわずらっていた。この間に、評議会が王の側近サマセット公の独裁を恐れヨーク公へ助力を要請したことでヨーク公が参政し、政権を握る一歩を踏み出していた。ヘンリー6世は、この後も断続的に精神疾患を繰り返した。

1461年

ヨーク家がランカスター家を打ち負かし、ヨーク公の息子エドワードが王を宣言し戴冠する(エドワード4世) ヘンリー6世と王妃はスコットランドへ身を隠した

1470-1471年

ランカスター家のヘンリー6世が今一度王位に就くが、ヨーク派がランカスター派を倒し、おそらくはロンドン塔でヘンリー4世を殺害し、エドワード4世が再び王位に就く。

1483年

エドワード4世が死去し、12歳の息子エドワード5世が王位を継承するも戴冠式挙行前に退位させられた

新王エドワード5世の摂政に就任したグロスター公リチャードは、エドワード4世の弟でありエドワード5世の叔父である。彼は、エドワード4世の側近であったリヴァーズ伯を逮捕し処刑した。処刑されたリヴァーズ伯は新王エドワード5世の母方の叔父であった。その後、新王エドワード5世は弟と共にロンドン塔に幽閉される。2か月後、議会は新王エドワード5世兄弟の母とエドワード4世の婚姻が無効であったとし、彼らを庶子として、王位継承の無効を議決した。

1483年

グロスター公リチャードが王となる(リチャード3世)

1485年

テューダー朝のヘンリーがボスワースの戦いでリチャード3世を破り、戴冠してヘンリー7世となる

1497年

イングランド南西部のブリストルから出港したジョンカボットが北アメリカ大陸を発見する


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