11世紀ー12世紀のスコットランド

11世紀ー12世紀のスコットランド

ウィリアム征服王 VS マルカム3世

反乱勢を支援してウィリアム征服王に挑んだマルカム3世、ウィリアムを大君主として認める結果に

マルカム3世時代(Malcolm III of Scotland / r. 1058–1093)のスコットランドは、現在のスコットランドよりも狭い領域でした。北部と西部は北欧人(Scandinavian)の支配下にありました。

11世紀末の地図:オークニー諸島や西の諸島は北欧人の支配下域
出典 Wikimedia Commons

さてイングランド王国は1066年にノルマン人による侵攻を受けました。イングランド北部は、この征服に抗って新国王ウィリアム(William)に対する反乱を起こします。マルカム3世はこの反乱を支援して、ウィリアムと戦いました。マルカム3世には、イングランド北部のノーザンブリア伯爵領を征服してスコットランドに取り込みたい狙いがあったかもしれません。しかし、結果はそうなりませんでした。

マルコム3世を想像して描いた18世紀の版画
出典 Wikimedia Commons

ウィリアム征服王は、反乱勢力と同盟しているマルカム3世を懲らしめるため、スコットランドに攻撃をしかけました。ウィリアム征服王は主な反対勢力を倒すことに成功し、イングランド国王としての地位を固めました。マルカム3世は、ウィリアム征服王を大君主(overlordship)として認めることを誓いました。

※大君主…王に勝る王。ここではスコットランド国王に勝るイングランド国王。

マルカム3世の死後の王位争い

マルカム3世の息子を凌いで弟ドナルド3世が君臨

マルカム3世は、1093年の「アルンウィックの戦い(Battle of Alnwick」で、息子のエドワード(Edward)とともに命を落とします。マルカム3世にはダンカン(Duncanという息子もいました。しかしスコットランド王位は、マルカム3世の弟ドナルド(Donald)が奪取しドナルド3世として君臨します。

※アルンウィックの戦い…対イングランド王国戦。敵軍を率いていたのはノルマン人のノーザンブリア伯ロート・デ・モーブレー(Robert de Mowbray)。アングロ=ノルマン軍の勝利。
※ダンカン…(Donnchad mac Maíl Coluim)。マルコム3世と最初の妃 Ingibiorg Finnsdottir のあいだに生まれた息子。1093年当時およそ33歳。

17世紀の画家によるドナルド3世のイメージ
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内戦1:ドナルド VS ダンカン

1094年、王位を奪取したドナルド3世が治めるスコットランドに、マルカム3世の息子ダンカンが侵攻しました。ダンカンはイングランド国王ウィリアム2世の激励を受け、義理の父にあたるノーザンブリア伯ゴスパトリック(Gospatric, Earl of Northumbria)の支援を得て、アングロ=ノルマン人からなる軍を率いていました。

ダンカン2世、一瞬だけの勝利

ダンカン軍の攻撃は成功し、ダンカンは戴冠に至ります(ダンカン2世)。しかしほどなくドナルド3世の逆襲にあい、ダンカン2世の同盟軍は駆逐されてしまいました。さらにダンカン2世自身は、殺害されてしまいます。

17世紀の画家によるダンカン2世のイメージ(ホリールード宮殿)
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ふたたび玉座に就くドナルド3世

ふたたび王位に就いて権力を握ったドナルド3世は、この時おおよそ62歳でした。世継ぎの子供はいませんでした。ドナルドは、後継者としてダンカンの異母兄弟エドマンド(Edmund of Scotland)を視野に入れていたかもしれません。エドマンドは、マルコム3世と2番目の妃マーガレットの間に生まれた人物です。

エドマンドは当初、ダンカンを支援してドナルドへの攻撃に加担していました。しかし寝返ってダンカンの殺害に関わったとも云われています。なぜダンカンを裏切り、ドナルド側に寝返ったのかは謎とされていますが、おそらくはドナルドから王位継承をもちかけられたためだろう、と考えられています。

内戦2:ドナルド3世を倒したエドガー

殺害されたダンカン2世には、さらにもうひとり異母弟がいました。エドマンドの実弟エドガー(Edgar)です。1095年、エドガーは自身の王位を主張して立ち上がりました。

エドガーはダンカン同様に、イングランド国王ウィリアム2世の支援をうけました。ただしこの時期のイングランド国王は、国内で起こった反乱の鎮圧やノルマンディへの遠征で忙しく、なかなかエドガーの援助に手がまわりませんでした。しかし最終的には、エドガーはイングランドからの援軍を得て、激戦の末に叔父ドナルド3世と兄エドマンドを倒し、スコットランド国王として戴冠にいたります(1097年)。

※イングランド国内で起こった反乱…ノーザンブリア伯ロバート・デ・モーブレー(Robert de Mowbray)がウィリアム征服王に謀反
※イングランドからの援軍…ウィリアム2世下のエドガー・アシリング(Edgar Ætheling)が率いた軍。スコットランド王エドガーの母方の叔父にあたる人物で、アルフレド大王の血を引く。 1066年、もうひとりの候補者:アルフレド大王の直系エドガー・アシリングの人生

エドガー王の印象
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スコットランド王エドガーは、必要に応じてイングランド国王ウィリアム2世の宮廷に参じました。

なおドナルド3世については、その後どうなったのかはよくわかっていません。殺されたと伝える者もあれば、亡命したと伝える年代記もあり、または盲目にされ投獄されたとする話もあるようです。

王エドガーは、ノルウェー王マグナス・ベアフット(Magnus Barefoot)と条約を結びました。ノルウェーの支配権をスコットランドの西の諸島に認めるものです。ただ実際には、ノルウェーによる支配はゆるく、地元の権力者が独立した状態を謳歌しました。

デビッド1世による大改革

イングランド育ちの大貴族デビッド、スコットランドに革命をもたらす

スコットランド王位は、エドガーから弟のアレクサンダー(Alexander r. 1107-24)、そしてまた弟のデビッド1世(David I r. 1124–1153)へと継がれました。

王位を継承したときデビッド1世はおよそ30歳でした。デビッド1世はそれまでの人生を、ノルマン=フレンチ貴族としてイングランドで送ってきた人物です。

マルコム4世の勅許状に描かれたデビッド1世像
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デビッド1世はスコットランドの国王になる以前、カンブリア大公(Prince of the Cumbrians)でした。またイングランド中部に広大な領土をもつ伯爵でもありました。ヘンリー1世のお気に入りだったデビッドは、ヘンリー1世が取り持った結婚(c. 1113年)によってイングランドに領土を獲得し、ヘンリー1世の後援を受けてスコットランドにも領土を得ていました。

デビッドの”カンブリア公国”
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デビッドの治世は、後世の歴史家が「デビッド革命」と名付けた変革に特徴づけられます。

デビッド1世によってスコットランドの従来の機関や人事が、イングランドやフランスのそれと入れ替えられました。アングロ=ノルマン系の上流階級がスコットランドの貴族層を形成し、封建制が導入されるとともに騎士・城・武装騎兵などが組織され、中世後期のスコットランドの基盤がつくられました。

デビッド1世は、アングロ=ノルマン式の政治体制を築き、国の政治を司る機関(justicar)、地方を管理する機関(sheriffs)を設置しました。またスコットランドで最初の勅許自治都市(royal burghsも建設しました。

勅許自治都市(ロイヤル・バラ)

スコットランドの町あるいは都市のうち自治権を与えられたものをバラ(Burgh)と呼び、なかでも国王から勅許を受けたものをロイヤル・バラ(royal burghs)と呼びました。

デビッド1世より以前のスコットランドには、町(タウン)がありませんでした。強いて言うなら、大きな修道院や要塞などのまわりに平均より多い人口が集まっているケースなどが「町」に近かったかもしれません。しかし少なくともロージアン(Lothian)以外の地域には集落が散らばっいるだけで、当時の大陸で見られたような「集村」はなかったとされています。

デビッド1世はイングランドの borough の概念をスコットランドに導入しました。デビッドの治世に勅許を受けた町は16あり、Berwick(1130)、RoxburghStirlingDunfermlinePerthSconeDumfriesJedburghMontroseLanark、そして Edinburgh 、このほか ElginForres などが含まれています。

Royal_burgh#Origins
Burgh

デビッド1世は、母マーガレット(Saint Margaret of Scotland)と兄弟が始めたスコットランドの修道院改革の支援を続けました。また教区の整理にも一役買いました。

ノーザンブリア伯爵領の没収およびカンブリアの喪失

デビッド1世の息子ヘンリーは早世したため、スコットランド王位はデビッド1世から孫のマルカム4世(Malcolm IV of Scotland r. 1153-1165)、つづいてその弟のウィリアム1世(William I r. 1165-1214)へと継がれます。

マルカム4世はスコットランドの王だっただけでなく、ノーザンブリア伯爵領(Earldom of Northumbria)およびカンブリア地域も継承していました。イングランドがスティーブンとマチルダの王位継承戦争で揺らいでいた時期に、デビッド1世が圧力をかけて獲得した領土です。

マルカム4世は、ノーザンブリア伯爵領を弟のウィリアムに継承し、カンブリアは自身の所有としました。しかしいずれとも、イングランド国王に帰属する領土ということで、この点においてマルカム4世はイングランド国王に忠誠を誓う必要がありました。

マルカム4世の「忠誠の誓い」は遅れたようです。イングランド国王ヘンリー2世は、ノーザンブリア伯爵領およびカンブリアを没収しました。代わりとしてハンティンドン伯爵位と領土(Earldom of Huntingdon)がマルカム4世に与えられました(これは13世紀の当主に世継ぎがなかった時点で没収となり消滅しました)。

マルコム4世像
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カンブリア

カンブリアはイングランドとスコットランドの間に位置し、ブリトン人の王国ストラスクライド(Kingdom of Strathclyde / 5世紀 – c. 1030)があった地域です。1030年頃からスコットランド(Kingdom of Alba)と併合し、1086年のドームズデーブック完成の時点でもイングランドによる完全な征服はなされておらず、南部だけがイングランドに掌握されていたようです。

1092年、イングランド国王ウィリアム2世がこの地域の領主(アングロ=サクソン系)を追い出してカーライル(Carlisle)に城を建てました。これに刺激されたかもしれないマルカム3世がイングランドに戦いを挑み、1093年の「アルンウィックの戦い(Battle of Alnwick)」で長男と共に命を落としました。このあとスコットランドは王位継承の内戦に突入したため、ウィリアム2世はカーライルとカンバーランドの獲得を維持しました。

ウィリアム2世の跡を継いだヘンリー1世は、スコットランド王アレクサンダーおよびデビッドと良好な関係を築いていたので戦争の心配がありませんでした。デビッドは兄王エドガーから旧ストラスクライドにあたる地域を遺贈され1113年にセルカーク(Selkirk)に修道院を建てています(Kelso Abbey)。

1124年からスコットランド王となっていたデビッドは、ヘンリー1世の死後に起こったスティーブンとマチルダの王位継承の内戦中に、カーライルとカンバーランドを得ます。しかしウィリアム2世時代からのイングランド領であることから、スティーブンはデビッドに”忠誠”を要求します。デビッド1世はすでにヘンリー1世の娘マチルダに忠誠を誓っているとして、代わりに息子に忠誠を誓わせました(Treaty of Durham (1136))。

History_of_Cumbria#High_medieval_Cumbria,_1066-1272

カーライル城
1092年:ENG ウィリアム2世が着工
1122-35年:ENG ヘンリー1世が増改築
1136-1153年:SCT デビッド1世が増改築
出典 Wikimedia Commons

参考
Rise of the Kingdom of Alba
王:Malcolm III of Scotland Donald III of Scotland Duncan II of Scotland Donald III of Scotland (再) Edgar, King of Scotland Alexander I of Scotland David I of Scotland Malcolm IV of Scotland William I
ほか:Edmund of Scotland

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