ローマ人がブリテン諸島から撤退してからのち数百年、現在のスコットランドに相当する地域にはおおきく4つのグループが存在しました。
4つの王国
東にピクト人の王国
東にはシェトランド(Shetland)とフォース川(river Forth)の間にピクト人の諸王国がありました。6世紀の終わりころに覇権を握ったのはフォルトリウ王国(Fortriu)です。この王国はストラサーン(Strathearn)とメンテイス(Menteith)を中心とし、最盛期には現在のイングランドにあたる東岸まで勢力をひろげました。
西にゲール語族の王国
西に存在したのは、ゲール語を話すひとびとの王国ダルリアダ(Dál Riata)です。アーガイルのダナッド(Dunadd)に王国の要塞がありました。アイルランド島と親しい関係にあり、スコットランドという名称の由来となっています。
「スコット」とは?
ラテン語の史料の多くは、ダルリアダに暮らす人々を「スコット」と記しています。スコットとはそもそもローマ・ギリシャ語で、ローマ支配下のブリテン島に侵攻してきた「アイルランドのゲール語族」を指した呼称です。のちに、その出自をとわずゲール語を話すひとびとがスコットと呼ばれるようになりました。
南にブリトン人の王国
南にはブリトン人の王国ストラスクライド(Kingdom of Strathclyde)がありました。ローマ文化の影響を受けた王国ヘン・オグレッド(Hen Ogledd)の後継と考えられています。ストラスクライド王国は Alt Clut とも呼ばれます。Alt Clut とは、王国の都ダンバートン(Dumbarton)をブリトン語であらわした場合の名称です。
南東にアングル人の王国
南東にはベルニシア王国が建ちました。ブリテン島に侵攻したゲルマン語族アングル人の王国です。記録にある最初のアングル人の王はアイダ(Ida)です。547年に戴冠したと云われています。アイダの孫息子にあたるアゼルヴリス(Æthelfrith)は隣国デイラと合併して、604年頃にノーザンブリア王国を築きました。王座争いや分裂を経て、息子のオズワルド(Oswald)の時代(治世634-42)に再統一されました。
キリスト教化
スコットランドは5世紀から7世紀にかけて、聖コルンバ(St Columba)などと縁の深いアイルランド由来の宣教師によって、ひろくキリスト教化されました。宣教師は各地に修道院や聖堂参事会教会(collegiate churches)を設立しました。
アイルランド由来のキリスト教は、ローマ系キリスト教とは異なる特徴をもち、ケルト系キリスト教として学術的に区別されます。たとえば修道院長が司教よりも重要な地位であるなどです。ほかには、聖職者の結婚に対する構えがより柔軟であったり、剃髪についてローマ系キリスト教とは異なる習わしがあったり、イースターの算出方法に違いがあったりしました。
しかしこうした違いの多くは、7世紀の半ばころには解決していたそうです。
参考
History of Scotland
Dál Riata