ヘンリー4世(Henry of Bolingbroke)
       

ヘンリー4世は、エドワード3世の三男ランカスター公爵の息子です。プランタジネット本家のリチャード2世を廃して即位しました。その治世は、各地で勃発する反乱に翻弄されます。晩年は病をわずらい、ウェストミンスター修道院で祈りをささげている最中に発作がおきて亡くなりました。

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ヘンリー4世(Henry of Bolingbroke

ヘンリー4世
出典 Wikimedia Commons
治世1399年9月30日-1413年3月20日(13年172日)
継承権エドワード3世の孫(男系)/ 皇位簒
生没1367年4月15日:場所 Bolingbroke Castle
1413年3月20日(45歳):場所 Westminster Abbey
家系プランタジネット家(Plantagenet
ランカスター系(Lancaster
父母John of GauntBlanche of Lancaster
結婚Mary de Bohun(1380年)
Joanna of Navarre(1403年)
子供Henry V, King of England
Thomas, Duke of Clarence
John, Duke of Bedford
Humphrey, Duke of Gloucester
Blanche, Electress Palatine
Philippa, Queen of Denmark, Norway and Sweden
埋葬カンタベリー大聖堂(Canterbury Cathedral
イングランド国王ヘンリー4世

年表

1399亡命先から帰国したヘンリー、リチャード2世を廃して即位
※ノルマンコンクエスト(1066)以来はじめて、「ノルマン=フランス語」ではなく「英語」で行われた戴冠式
1400ポンテクラフト城にてリチャード2世が死亡(餓死?)
カンタベリー物語( The Canterbury Tales』未完のまま、ジェフリー・チョーサー( Geoffrey Chaucer )が亡くなる
ビザンツ帝国皇帝マヌエル2世( Manuel II )がイングランド王を訪問
1401ウェールズでオワイン・グリンドゥールの反乱
1403パーシー家( Percy )率いる反乱軍がシュルーズベリーの戦い( Battle of Shrewsbury )で敗れる
1404グリインドゥールがフランスと結ぶ(1405年にフランスから支援軍を得る)
1406ヘンリー4世、ハンセン病らしき症状を発症
1408パーシー家による反乱
1413ヘンリー4世、ウェストミンスターで死去
イングランド国王ヘンリー4世の治世の年表

おもなできごと

先王を廃して戴冠

ヘンリー4世は、ランカスター公爵ジョン・オブ・ゴーント( John of Gaunt )の長男です。また、エドワード3世( Edward III )の孫にあたり、先王リチャード2世とは従兄弟の関係にあります。

リチャード2世の治世に追訴派( Lords Appellantに関与していたヘンリーは、リチャード2世による復讐を恐れて亡命していました。1399年に父ジョンが亡くなると、リチャード2世は公爵位や領土の継承を阻止し、それらを没収しました。

※追訴派貴族( Lords Appellant )…1386年議会でリチャード2世の寵臣らの解任を要求し弾劾をおこなったグループ。影響力を増してリチャード2世の寵臣の処刑も行った。リチャード2世の復讐によって元追訴派は処刑されるか、もしくは亡命した。

同年、ヘンリーはイングランドに戻り、支持者を集めて蜂起すると、リチャード2世政権を転覆させます。ヘンリーはリチャード2世を投獄し、王位を奪取して、ヘンリー4世として即位しました。

1404年、1406年の会議

国王は、フランスの領地カレーやガスコーニュを守るため、またウェールズ国境を守るために、資金が必要でした。ヘンリー4世は、動産税を課してこれを賄おうとしますが議会の反対を受けます。ヘンリー4世は議会との協調路線を模索しながら、統治をすすめました。

各地で反乱、鎮圧に奔走

ヘンリー4世の短い治世は、各地で起こる反乱の鎮圧に奔走することになりました。

ウェールズ公国では、オワイン・ グリンドゥール ( オーウェン / Owain Glyndŵr )がイングランドの支配に抵抗して大規模な反乱を起こし、自身がウェールズ支配者であると宣言しました。

1409年までにイングランドはウェールズの大部分を再征服します。1415年にオワインが亡くなると反乱はおさまりました。

オワイン・ グリンドゥール の反乱

オワイン・ グリンドゥールは、ウェールズを代表する複数の由緒ある家系の血をひいています。

リチャード2世の廃位とヘンリー4世の王位簒奪によってイングランドが混乱すると、1400年、オワインはウェールズ人を率いて蜂起しました。この反乱は15年におよびました。

ウェールズ蜂起のニュースはヨーロッパに広がり、イングランドと敵対する国々(スコットランド王国やブルターニュ公国、フランス国王シャルル6世)からの支援を受けました。オワインは「ウェールズ大公」を名乗り、議会を設置して、ウェールズの独立を図りました。

しかし当初の成功に反して、1407年からは情勢がかわります。装備を一新したイングランド軍によって1409年にウェールズの大部分が再征服されました。

追い詰められたオワインは老人に変装して脱出します。降伏することを拒み、ゲリラ戦を展開しました。ヘンリー4世から2度の交渉を持ち掛けられますが、いずれも拒否し、その後は首に莫大な賞金がかけられました。それにもかかわらず、オワインは捕まることなく、1415年に56歳でその生涯を終えました。

イングランド国内では、1403年にノーザンブリア伯らがヘンリー4世に対して反乱をおこしました。この反乱は1408年に鎮圧されました。

ノーザンブリア伯(パーシー家)の反乱

パーシー家はリチャード2世時代にノーザンブリア伯に叙せられました。ヘンリー4世の王位簒奪を支持し活躍しましたが、功績が報いられなかったりするなど、次第に不満がたまってゆきます。

1403年にノーザンブリア伯は、別の王位請求者( Edmund Mortimer )を支持して、またウェールズのオワインらと共謀して、反乱を企てました。しかしシュルーズベリーの戦い( Battle of Shrewsbury )に敗戦し息子が命を落とします。ノーザンブリア伯はスコットランドのちウェールズに亡命しました。

1407年、ノーザンブリア伯はふたたび蜂起します。しかし翌年ブラマム・ムーアの戦い( battle of Bramham Moor )に破れ、命を落としました。

ヘンリー4世の死

1413年、ヘンリー4世は45歳で亡くなります。晩年はハンセン病と考えられる症状に苦しみました。

1410年には長男のヘンリー( Henry of Monmouth )が政治を行うようになり、ヘンリー4世の死後に、ヘンリー5世として即位しました。

地図

ウェストミンスター修道院

ヘンリー4世は、1413年3月20日、ウェストミンスター修道院( Jerusalem Chamber )で、祈りをささげている最中に発作にみまわれ亡くなりました。


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参考
Kings and Queens of England & Britain
Henry_IV_of_England
Henry IV (r.1399-1413)
King Henry IV (1399 – 1413)
A Really Useful Guide to Kings and Queens of England
物語イギリスの歴史(上)

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