エドワード1世(Edward Longshanks)
       

エドワード1世は政治力と武勇に長けた人物でした。

議会を開く際、聖職諸侯や世俗諸侯に加えて騎士や庶民の代表を招聘することが多かったため、その初めとされる1295年の議会は、後世「模範議会」として知られることになりました。

このほか、ウェールズを征服してイングランドに併合したこと、息子をウェールズ大公に叙したこと、スコットランドへの侵攻なども、エドワードの治世の重要なできごとです。

いっぽうで愛妻家としても知られ、夫婦仲は良く、先に亡くなった妃を偲んでエレノア・クロスを建立したことも有名です。

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エドワード1世(Edward Longshanks

エドワード1世
出典 Wikimedia Commons
治世1272年11月20日-1307年7月7日(34年230日)
継承権ヘンリー3世の長男
生没1239年6月17日:場所 Palace of Westminster
1307年7月7日(68歳):場所 Burgh by Sands
家系プランタジネット家( House of Plantagenet
父母Henry IIIEleanor of Provence
結婚Eleanor of Castile(1254年)
Margaret of France(1299年)
子供Henry
Eleanor, Countess of Bar
Joan, Countess of Hertford
Alphonso, Earl of Chester
Margaret, Duchess of Brabant
Mary of Woodstock
Elizabeth, Countess of Hereford
Edward II, King of England
Thomas, Earl of Norfolk
Edmund, Earl of Kent
ほか( Family
埋葬ウェストミンスター修道院( Westminster Abbey
イングランド国王エドワード1世

年表

1272十字軍遠征中のエドワード、父の訃報と自身の王位継承の報を受ける
1274エドワード1世、ウェストミンスター寺院( Westminster Abbey )で戴冠
1282エドワード1世、北ウェールズに侵攻してウェールズ支配者サウェリン・アプ・グリフィズ( Llewellyn ap Gruffydd )を倒す
1284ルドラン法令( Statute of Rhuddlan )によって、ウェールズの独立が終了
1290エドワードの妃エレノア( Eleanor of Castile )がノッティンガムシャーのハービー( Harby )で亡くなる
遺体はロンドンまで運ばれ、のちに道中に妃を偲んだエレノア・クロス( cross )が建てられる
1292エドワード1世、ジョン・ベイリャル( John Balliol )をスコットランド王に選出
1295模範議会( Model Parliament )が開かれる
1295ジョン・ベイシャルがエドワード1世への忠誠を破り、フランス国王フィリップ4世と同盟
1296エドワード1世、スコットランドに侵攻し、ベイシャルを廃位
スコットランド王位を自らのものとし、スクーンの石( Stone of Scone )をウェストミンスターに持ち帰る
1297スコットランド人がイングランドの支配に対して蜂起
ウィリアム・ウォレスがこれを率い「スターリング・ブリッジの戦い( Battle of Stirling Bridge )」にてエドワード1世軍を破る
1298エドワード1世、スコットランドに再侵攻し「フォルカークの戦い( Battle of Falkirk )」でウィリアム・ウォレスを討つ
1299エドワード1世、マーガレット( Margaret of France )と再婚
1301エドワード1世、息子を「ウェールズ大公」に叙任
(以来、国王の長男がこの称号を得る慣習が現在まで続く)
1305ウィリアム・ウォレスがロンドンで処刑される
1306ロバート・ブルース( Robert Bruce )がスコットランド王を名乗り戴冠
1307エドワード1世、スコットランドに再々侵攻を試みるが、その道中で崩御
年表:イングランド国王エドワード1世の治世

おもなできごと

戴冠前の若年期からの活躍

エドワード1世はヘンリー3世の長男です。まだ若年だった父王の治世のころから、政治的陰謀や諸侯( barons )の反乱に関わっていました。

諸侯派として

1259年には反乱諸侯に味方して、オックスフォード条款( Provisions of Oxfordを支持しました。

※オックスフォード条款…シモン・ド・モンフォール(第6代レスター伯)の率いる諸侯により制定された国政に関する取り決め。

王室派として

エドワードは父王ヘンリー3世と和解し「第二次バロン戦争( Second Barons’ War 」においては、王室側として戦いました。

※第二次バロン戦争…別名「シモン・ド・モンフォールの乱」。一時的に反乱側が実権を握るが最終的には王権が回復した。

「ルイスの戦い( Battle of Lewes ) 」に負けて父王と共に反乱諸侯の捕虜となったエドワードは、数か月後に脱出に成功します。そして「イブシャムの戦い( Battle of Evesham )」において、反乱諸侯のリーダーであるシモン・ド・モンフォール( Simon de Montfort )が率いる軍勢に勝利しました。1265年のことでした。

エドワードの戴冠

1267年までに反乱は鎮圧され、エドワードは第8回十字軍遠征( The Last Crusades )に参加して聖地エルサレムへ向かいました。その帰路、1272年に、父王ヘンリー3世の崩御の知らせと自身の王位継承の知らせを受けます。帰路の道中で所用を済ませてから、1274年にイングランドに帰国すると、ウェストミンスター寺院( Westminster Abbey )で戴冠しました。

※所用…アキテーヌ公として、パリに立ち寄りフランス国王フィリップ3世に臣従礼を行い、ガスコーニュで1年ほど政務を取り仕切きった

エドワード1世はその治世において、行政機関と世俗法( common law )の改革に力を注ぎました。また軍事的な問題にも積極的でした。

ウェールズ征服

ウェールズでは1276~77年と1282年~83年に反乱が起きたので、エドワードはウェールズの完全征服( Conquest of Wales )に乗り出しました。これ以降、ウェールズをイングランドの支配下におき、一連の城や町を建てて、そこにイングランド人を移住させました。

プリンス・オブ・ウェールズ

エドワード1世がウェールズに建てた城の多くが現在も残っており、観光入城することができます。エドワード1世の息子エドワード(のちの2世)は、1284年にカーナーヴォン城( Caernarfon Castle )で生まれています。1301年、エドワード1世は、彼を「ウェールズ大公」に叙しました。以来、イングランド君主の長男がこの称号を与えられる慣習となり、現在まで続いています。

スコットランド侵攻

つづいてエドワードの興味はスコットランドに向かいました。

スコットランドでは王位継承問題が生じており、1292年に調停に入ったエドワードは、スコットランドに対してイングランド国王の優位性を認めさせました( suzerainty )。

ジョン・ベイシャルの廃位と、スクーンの石

スコットランドの王位継承問題において、エドワード1世はジョン・ベイシャルを国王に選び、彼はスコットランドを代表してエドワード1世に対する忠誠を誓いました。しかしベイシャルは、イングランド王家の宿敵であるフランス国王と同盟を結んでイングランドに反旗をひるがえしました。

エドワードはスコットランドに侵攻して、ジョン・ベイシャルを廃位し、自身がスコットランド王位を奪取しました。またスコットランド国王の戴冠を象徴する「スクーンの石」をイングラドに持ち帰り、ウェストミンスター修道院の「エドワード証聖王の椅子」の下にはめ込みました。これは、イングランド王はその戴冠の時にスコットランド王も兼ねることを意味しました(スクーンの石は1996年にスコットランドに返還)。

スコットランドの英雄ウィリアム・ウォレスと、国王ロバート・ブルース

スコットランド人はエドワード1世を国王と認めず、抵抗しました。北ではアンドリュー・デ・モレー( Andrew de Moray )をリーダーとして、南ではウィリアム・ウォレス( Andrew de Moray )をリーダーとして、反乱勢が終結しました。

1297年9月、大規模なイングランド軍が、スターリング・ブリッジ( Stirling Bridge )で、反乱勢と対峙しました。反乱勢の規模は小さかったにもかかわらず、イングランド勢は大敗を喫します。

1298年、フランダースから戻ったエドワード1世は軍を率いて報復に向かい、フォルカークの戦い( Battle of Falkirk )でウォレスが率いる軍を討ちました。しかしスコットランドにとどめを刺すことが叶わず、このあともスコットランド人の抵抗はつづきました。

スコットランドの王位請求者のひとりであったロバート・ブルース( Robert the Bruce )は、1302年からエドワード1世の味方に付いていました。ウィリアム・ウォレスの味方だったメンテイス(  John de Menteith )も、1305年にウォレスを裏切ってイングランド勢に引き渡します。ウォレスは処刑されました。スコットランドはイングランドの支配下に落ち着いたようにも見えました。

しかし状況は1306年に一転します。ロバート・ブルースが王位請求のライバルであったジョン・カミン( John Comyn )を殺害し、自身がスコットランド王として戴冠するのです。この振る舞いに激怒したエドワードは、ブルースの親戚や同盟者に対して残忍な処置を行います。しかし、これがかえってブルースの味方を増やす結果につながりました。

エドワード1世は、スコットランドを再征服するため北上しますが、この道中で赤痢を患い崩御します。1307年のことでした。

模範議会

エドワードはその治世をつうじて、定期的に議会を開催しました。

1295年に開かれた議会では、世俗諸侯と聖職諸侯に加えて、各カウンティから2人の騎士、そして各バラから2人の代表が招聘されました。このように、庶民の代表が議会に呼ばれることは初めてのことではありませんでしたが、これ以降に定着した議会スタイルのため、後世の歴史家が、この集会を「模範議会」と名付けました。

模範議会の構成

  • 聖職諸侯:大司教、司教、修道院長
  • 世俗諸侯:伯、諸侯、
  • カウンティ代表:2名の騎士
  • バラ代表:2名の庶民

フランス国王との戦争

フランス国王フィリップ4世( Philip IV )が、フランスのガスコーニュ地方をエドワードから没収を宣言したため、戦争がはじまりました。エドワードはガスコーニュを奪回することはできましたが、この間にスコットランドに対する軍事力が弱まってしまいました。

※ガスコーニュ地方…イングランド王家がフランスに有する、いまや唯一の領土。ワインの生産地として栄え、アキテーヌ公としてのエドワードの収入につながっていた。

エドワード1世の死

エドワード1世は1307年に亡くなります。スコットランドではロバート・ブルースが、誓いを破って自らが国王として戴冠したため、エドワードはスコットランドの再征服に向かいました。この道中で赤痢を患い、命をおとします。

あとを継いだエドワード2世( Edward II )は、途中だったスコットランドとの戦争、そして財政と政治の問題も合わせて引き継ぐことになりました。

エドワードは190センチ近い高身長で、そのため「長身・足長」を意味するロングシャンクス( Longshanks )というニックネームがつきました。

地図

ガスコーニュ

1328年のフランス
出典 Wikimedia Commons

1328年のフランスの地図です。ガスコーニュのおおまかな位置がわかります。エドワード1世はアキテーヌ公爵位を継承していましたが、この時代の領土はピンク色で示されたガスコーニュのみになっていました。

カーナーヴォン城

エドワード1世がウェールズに建てた城のひとつ、カーナーヴォン城です。息子のエドワードはここで生まれたとされ、生後間もなく、ウェールズ大公に叙せられました。

  関連リンク   【ウェールズの城】エドワード1世が建てた4つの城


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参考
Kings and Queens of England & Britain
Edward I of England
King Edward I Longshanks (1272 – 1307)
Henry III and Edward I
A Really Useful Guide to Kings and Queens of England
物語イギリスの歴史(上)

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